2010年12月9日木曜日

サンダー・シングの書を読んで 臨死体験 と お陰


聖書のみことば  エフェソ信徒への手紙 2:1-5

さて、あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです。
この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべきものでした。しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、---あなたがたの救われたのは恵みによるのです。---

 実は、今回は別のテーマを考えていたのですが、先日、ある方からインドの偉大なキリストの聖者サドウ・サンダー・シングの著書を入手したこと。それとその同じ日に 祈りと黙想の集い(テゼ) のなかで、植松功氏がお話しされたなかで、印象に残った話と、この書に書かれているあることがマッチングしましたので、この事について書かせていただきます。

 まず、植松氏の話ですが、
  植松氏は先日、米国へ行かれたときに、ある書店に入り、そこで一冊の本を手にとりました。その本は臨死体験の事例が書かれているものでした。植松氏の目にとまったのは、ある13歳の少年の事例でした。この話はこういう内容です。

  この少年は心肺停止の状態で、病院に運び込まれて来ました。医師たちの懸命の努力で、何とか蘇生し、意識が回復しました。意識が回復した後、ある医師が「あなたは何か見てきましたか」と尋ねました。するとこの少年はこう答えました。「僕は神様に会って来ました。神様は僕たちの祈りを何でも聴いてくださる方でしたよ。それなのに、なぜ大人の皆さんはこの神様への祈りを遠慮しているのでしょう」。

   この話はわたしたちに、猛省を促す話ですよね。

さて、本題に入ります。

サドウ・サンダー・シング 「イエス・キリスト 封印の聖書」第Ⅱ部 聖なる教え 第八章 講話録より
 ある臨死体験

 わたし(サンダー)は、ある青年に「あなたは救い主のために何をしていますか」と尋ねたことあがある。彼はこう答えた。「わたしがしなければならないようなことを、キリストが私にしてくれたのですか」。わたしは言った。「キリストはあなたのために血を流され、いのちをお与えになったのです」。彼は言葉を返した。「待ってください。それはわたし個人のためですか。キリストは全体のためにいのちを与えたのでしょう。わたしが、返さなければならない何かを、キリストがわたし個人にしてくれたのでしょうか」。 数ヶ月後、彼は重い病に倒れ、死の床にあった。そのときに、脱魂して幻を見た。人生の様々な場面が映像になって室内に広がった。その中に、まだ幼い彼が、二階のバルコニーから転落する場面があった。転落するときに、誰かが彼を腕に抱き止め、優しく地面に横たえた。この人の掌には”傷跡”があった。次に、彼は、自分が岩場から落ち、死を覚悟する場面を見た。このときにもある人が彼を救出した。その人の両掌には”傷跡”があった。さらに別の場面で、彼は毒蛇を踏んでいた。だが、ここでも、蛇に噛まれないようにと、何者かが蛇の鎌首を押さえた。その掌には”傷跡”が見えた。次に、室内で密かな罪に耽っている場面を見た。すると、またもその人が現れ、傷を見せながら、罪を犯さないようにと彼に願った。これらの場面を見せられているときに、キリストが現れ、こう言われた、「わたしは、あなたにこれだけのことをしたのにもかかわらず、あなたはわたしが、何もしなかったと考えている。あなたは今、死を前にしている。ここで死ねばあなたは確実に地獄に行く。だが、今度もわたしはあなたを死の淵から救い出す。行って、神があなたのためにした、この大いなる出来事を人々に話しなさい」。こうして、回復した彼は神のしもべとなった。

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 実は、私、以前にある方のブログへのコメントで「私は地獄の縁まで行った」といった言葉の入った書き込みをしたところ、その表現が極端であったことと、説明不足のため、その方には大きな誤解を与えてしまいました。このことには大変申し訳なく思います。この「地獄の縁にいる」というのは、なにかの特別な苦悩体験の事ではなく、実は地上に生きているわたしたち皆があてはまるものなのです。しかし、そのわたしたちが平和のうちに生かされているのは、まさに救い主のお陰なのです。
 この お陰 という認識は他の宗教の信者の方でも、その方が本物の信仰者であれば、その方の信仰上の立場に応じて、良く理解されていることと思います。また、日本人の伝統的価値観にもそれはあります。(むしろこのことを忘れたのは西洋的キリスト教の方かもしれませんね)
 この お陰 を識ることこそが、真の謙遜というものではないでしょうか。謙遜とは決して、消極的抑制思考観のことではないのです。

 もう一つのポイントは、私達キリスト者は何でいるのか、ということです。私達はキリストの証人となるように、召されたのです。(使徒言行録 18節)キリスト者は決して救いの特権階級ではありません。お陰を知った私達はそのことを、ほかの人に伝える使命があるのです。とりわけ信仰共同体としての教会にとっては最優先課題の大使命です。しかし、この再優先の使命に不誠実であるならば、どうして他の事柄に対して誠実に取り組むことができましょう。

 聖パウロやサドウ(聖者)・サンダー・シングのような人々はこの使命に対して、果敢なまでの情熱と誠実さを持っていた人たちでした。偽りの謙遜がこのことを妨害して良いはずはありません。

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 この聖者にはなにか途方もない奥深さを感じます。またその実践も聖パウロに匹敵するものがあります。この聖者のことを書くのは容易いことではないでしょうが、せっかく著書をいただいたのですから、なにか気づきがあったら自分の理解できる範囲でこれからも書かせていただきます。

引用文献:
 イエス・キリスト 封印の聖書 サンダー・シング 林 陽 訳 徳間書店

2010年11月16日火曜日

本物の信仰とは? 愛のプライオリティ(優先順位)


はじめに

  日本語の「愛」という言葉は、なにか抽象的で曖昧な意味合いのように思え、使う人の立場によって様々な(都合の良い)適用がなされています。そしてその法則性は主の教会の中でも、至極当然のように浸透しています。

 しかしながら、みことばが語る[愛(アガペ)」とは決して抽象的なものではなく、それは極めて明確なものであり、かつ厳正なものではないでしょうか。まずここで「愛のプライオリティ(優先順位)」というものをみことばの視点から考えていきたいと思います。

 聖書のみことば   申命記 6:4-5
  聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。
 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

  マタイの福音書  10:37-39
  (イエスは語る)わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。
   わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
  また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。

 聖伝的教訓 「キリストにならう」 第七章 すべてを超えてイエスを愛す
  イエスを愛して、イエスのために自分を軽蔑する(後回しにする)ことの真の意味を理解する人は幸いである。その愛は、すべての愛を超えるものでなくてはならない。なぜならイエスは、ご自分がすべてを超えて愛されることを望んでおられるからである。被造物への愛は、誤りやすく変わりやすい。しかしイエスへの愛は、誠実で不変のものである。

 これは、まさに上述の聖書のみことばの要約であるとともに、明確な説明でもありましょう。

 次に、カトリック教会の偉大な教会博士である十字架の聖ヨハネの著書である「霊の賛歌」から少し拾ってみます。

 霊魂と天の花婿(キリストのこと)との間にかわされる歌

 1.どこにお隠れになったのですか?
   愛する方よ、私を取り残して、嘆くにまかせて・・・・・
   私を傷つけておいて、鹿のように、あなたは逃げてしまわれました。
   叫びながら私はあなたを追って出てゆきました。
   でもあなたは、もういらっしゃらなかった。

 3.私の愛をさがしながら、私は行こう。
   あの山々を越え、かの岸辺を通って。
   花も摘むまい、野獣も恐れまい。
   強い敵も、国境を超えて行こう。

 *最愛のお方をひたすら追い求める者は、他のことは一切眼中になくなるでしょう。その慕い求める思いは全てを捨てて追いかけようとする行為へと駆り立てるでしょう。しかしその道のりは様々な障害や困難もあることでしょう。

 6.ああだれが私をいやせようか!
   どうか、真にあますところなく、あなたをお渡しください。
   もう今日からは私に使者を送らないでください。
  私がのぞむことを告げえないあの人たちを。

 *この熱い思いは愛するお方以外、だれも鎮めることはできません。また愛するお方との出会いを妨げる惑わしを一切拒絶することでしょう。
  
  他のすべてを超えてキリストを愛するとはまさにこのようなことでしょう。

  次に、神を愛することが、最も優先すべきことであるならば、では人に対してはどうなるのでしょうか。

 よく教会で聞く話はマルコ12章28節-33節の記述に基づき、第二位の掟として『隣人を自分のように愛しなさい』の言葉をもって、これこそ教会の愛の黄金律として、隣人愛の薦めをしています。しかしこの聖書箇所が語っていることはあくまでも旧約の律法の中でなにが最も大切かという問いかけに対する答えです。むしろ新約の掟として語られているのはヨハネ13章34節でイエス様が語られた事、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」ではないでしょうか。イエス様が「私があなたがたを愛したように」と言われるのであれば、そこに用いられる愛はもはや人間的な情愛ではなく、それ以上のものでしょう。また愛の対象も、もはや隣人ではなく、兄弟姉妹であり、共に生きる家族としてのものでしょう。

 では、次に自分自身に対してはどうでしょうか。

十字架の聖ヨハネの著書を読むと、よく「自己否定」とか「自己放棄」とか「自分に対する軽蔑」といった意味合いの事が書いてあり、それをもってこの聖人は極めて厳格で近寄り難しと思われがちですが、この事については、現代人の価値観に生きる私達が文字通りにとるべきではないでしょう。むしろこの聖人の教説の中心的なテーマは何かという視点でとらえるべきです。この聖人の教説の中心的テーマは「神との愛の完全一致」です。自分自身を完全に否定していたら「愛する」ことすら出来なくなるではないですか。

 では、この事についてはどのように考えるべきでしょうか。

 これはあくまでも私の私見による提案ですが「聖性に向かうための自己愛」というのはいかがでしょうか。

 聖性に向かうための自己愛とは
  おごることもなく、いたずらに自己卑下することもなく、おかしな自己認識や偏向した思想にとらわれることもなく、自己満足の追求に溺れることもなく、自己利益に固執することもなく、客観的に自分と向かい合い、その上で、たとえその自分がどのような者であったとしても神に多く愛されていることを識ること。ではないでしょうか。

 話が長くなってしまったので、ここでまとめてみます。
  愛のプライオリティは大きく分けて以下の三段階になるのではないでしょうか。

 第一位 神への愛・・・大いなる神の愛の応答として
 第二位 兄弟姉妹への愛・・神の愛をもって
 第三位 聖性に向かうための自己愛・・霊の賜によって

 この第三位のものが確かなものになればなるほど、第一位のものが確かなものとなり、第一位のものが確かなものになればなるほど、第二位のものも確かで豊かなものになっていきます。この循環が正常に働くことによって、本物の信仰や健全な教会の霊性の醸成へとつながるのではないでしょうか。これは一つの秩序でありましょう。もしこれらのことが一つでも軽んじられたり、逆転してしまったら、この秩序はたちまちのうちに崩壊してしまうでしょう。

 秩序なき教会の行く末はどうなるのでしょうか。とりわけ偽教師、偽預言者に対しては本物の信仰者たるもの、緊張感をもって警戒する必要があります。

 追記:これらのことはあくまでも私見に基づいて書いたもので、正式な手続きを経た、神学的根拠にもとずくものではないことを、とりわけカトリック教会の指導的立場の方々にはご承諾願います。

                                 十字架のヨハネ・テレジオ
引用および参考文献:
 「キリストにならう」 バルバロ訳  ドン・ボスコ社
 「霊の賛歌」 十字架の聖ヨハネ著 東京女子カルメル会訳 ドン・ボスコ社
 「カルメル山登攀」 十字架の聖ヨハネ著 奥村一郎訳  ドン・ボスコ社

2010年10月12日火曜日

本物の信仰とは? 事実の確認



聖書のみことば   ヘブライ人への手紙 11:1

信仰とは望んでいる事柄を確信(実体化)し、見えない事実を確認すること。

 ここで、私がプロテスタント教会に在籍していたときに愛読していた、ウオッチマン・ニー師の著作より、ひとつのエピソードを紹介します。


**以下 ウオッチマン・ニー全集 正常なキリスト者の信仰  より引用
 わたしには二人の同労者がいます。一人は倪という兄弟で、もう一人は李という姉妹です。二人とも最近クリスチャンの働きを始めたばかりですが、二人とも近眼です。二人は眼鏡をかけていました。李姉妹は主の前に出て祈りました。「主よ、あなたは盲人をいやされました。あなたはわたしに同じ事がおできになるのではないでしょうか。わたしは眼鏡をかけていては村々の巡回伝道にとても不便です。主よ、いやしてください」彼女はある村へ向かう途中、小さな汽船の上でこの祈りをしました。祈った後、彼女は神が彼女の求めを聞いてくださったことを知りました。彼女は内側に信仰があったので、眼鏡を川の中に投げ込みました。彼女はその結果、いやされました。その知らせを倪兄弟が聞きました。ある日、わたしの所に来て言いました。「神は李姉妹の目をいやされました。神は私にも同じ事をなさるだろうと信じます」。わたしは答えました。「あなたは、神はあなたをいやされるだろうと言いました。これは、あなたがまだその信仰を持ていないことを証明します。あなたはいやされないでしょう」。しかし彼は、神は一つの奇跡を行われるのであり、自分はそのような信仰を持っていると主張しました。二日後、彼は小さな汽船に乗っていました。彼は、祈り眼鏡をはずして水中に投げました。一ヶ月後、わたしは彼に会いました。すると彼は自分の目は少しも良くなっていないと告げました。神はまだ彼をいやしておられなかったようです。わたしは言いました。「12ドル払って眼鏡を新調したらどうですか?そのほうが賢いですよ」。彼は自分が古田に伝道に行くところだが、四ヶ月後に戻ってくると言いました。彼はその時までにいやされるであろうという信仰を持っていました。わたしは言いました。「もしあなたが四か月後に神があなたをいやされると思っているのでしたら、あなたは将来に信仰を置いているのです。これは本物の信仰ではありません」。

**


 さて、このエピソードでは、李姉妹と倪兄弟は同じ祈りをし、同じ行為をしています。しかしその結果は決定的に違うものです。ではその違いは何でしょうか。
 まず、李姉妹は祈り終わった後、ただちに神が聞き入れてくださったことを確認しています。そして眼鏡はもう不要になったことを悟り、処分したのです。それに対して倪兄弟のものはあくまでも「であろう」の仮定に基づくものであり、彼が眼鏡を水に投げ入れたのはいわば「主を試す」行為であったのです。このことをしてニー師は、彼の信仰は本物ではないと評価したのです。


 まとめてみますと、ここで語られている本物の信仰とは、成就された事実を確認することに基づくものであり、将来おこるであろうという仮定は本物ではないということです。みことばの約束は、今は目に見えないことであっても、成就されている事実として確認すべきものなのです。私たちが確信を持てきれないのは日々、起きている神の(恵みの)みわざを確認していないからではないでしょうか。


このテーマはいろいろな話や証が出てきそうですね。次回はすこし違った視点から述べていきたいと思います。


引用文献:
ウオッチマン・ニー全集(第二期 第二十七巻)正常なキリスト者の信仰 日本福音書房

2010年9月6日月曜日

神の栄光の現れ 闇のうちにこそ

             
聖書のみことば    マタイ 27:45,46 (新共同訳)

 「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、
イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、
わが神、なぜお見捨てになったのですか。』という意味である。」

 聖書の中には、多くの「神の栄光の現れ(シェカイナ・グロリア)」の記述があります。福音書の中では、皆さんが良くご存じなのが「山上の変容」でしょう。しかし私が思うには、最も端的なものとは「ゴルゴダの十字架」ではないでしょうか。この十字架を包む闇こそが、最も純粋な「神の栄光」ではないかと。
 十字架の聖ヨハネは「純粋な神的光に照らされると、人にはそれが闇のように見える」という主旨のことを語っていました。
 私たちは、神の光に照らされれば、照らされるほど、自らの内の闇が露わにされ、自分の心の醜さ、罪深さが鮮明にされます。そしてそのことは、その人にとって苦しみとなることもあるでしょう。そしてその闇が自分自身を包み込むとき、たとえその人がどんなに熱心な信仰者であったとしても(否、むしろ熱心な信仰者ほど)神様の存在が、天国の存在が解らなくなることがあります。しかしその闇の中にあっても、ひたすら信仰のうちに前に進むとき、その闇は自分の内につきまとっている様々なエゴやとりとめのないことに対する執着心など、罪の基となる不純物をはぎ取っていく、「浄化の闇」となるのではないのでしょうか。

 私は、この頃の教会が、人にとって心地よく、好ましく思えるメッセージばかり語られていることに、何か懸念を感じざろう得ません。十字架の聖ヨハネの著作の「カルメル山登攀」にある「完徳の山」の図には、慰めや喜びばかりを求める道は「不完全な霊の道」とされています。
たしかに「不完全な道」を歩む人も、本当に信仰のある人なら、救われるのですが、はたして、約束の御国・永遠の都の栄光にあずかれるかどうかは、神のみの知るところです。
 ちなみに「完全な道」とは、狭く険しい一本道であり、そこにあるのは「無」と「暗夜(闇)」です。

 私たちキリスト者の信仰とは本来「十字架の道」であるはずです。今、目の前にあるのは闇です。
しかしその彼方に今は、目に見えない約束の栄光に包まれた御国があることを、私たちは確信しています。(しているはずです!)この確信がなかったら、一体クリスチャン人生に何の意味があるのでしょうか。


                                                                                    十字架のヨハネ・テレジオ


 

2010年8月12日木曜日

偽りの善行-- ある活動派クリスチャンの事例

 Aさんは、高齢で病気がちの母親と二人暮らしです。

 Aさんは、様々な教会の奉仕やボランティア活動に、非常に熱心に参加し、ほとんど毎日、外を出回っています。この人の熱心な奉仕は、多くの人から誉められ、本人もそのことを快く思い、自分が熱心な隣人愛の実践者であることを誇りに思っています。

 さて、Aさんが、一日の活動を終え、帰宅すると、そこには洗濯もされていない下着を身にまとい、汚れた布団に臥床している母親がいます。Aさんはそのことに気にも止めず自分の食事を済ませたら、そのまま自分の居室に入り、一日の出来事を日記に記入した後このような祈りを始めました。

 「神様、私は今日も多くの隣人愛の行いをして、あなたのみこころにかなうことができましたことを、感謝します。明日もまた、多くの人に愛の奉仕ができますように」
 と祈った後、そのまま自分の床に入りました。

 さて、この事例を読んで、なにか違和感を感じないでしょうか。なにかおかしいと思わないでしょうか。なにかが狂っていると思わないでしょうか。このことは決して特殊な事例ではありません。

 自分の身近にいる、病んでいる人、苦しんでいる人、困っている人、争っている人を知らずして、やれ、隣人愛だ、社会正義だ、世界平和だと高らかにラッパを吹き鳴らす人は何者でしょうか。

 自分自身の内に、病んでいる人、心貧しい人、罪深い人がいるのを知らずして、どうして、真摯に他者を思いやり、誠実な善い行いができるのでしょう。

 今の時代の教会に多くの偽善がはびこっていることに、心痛めざろう得ません。

聖書のみことば

 マタイ 6:1-4

 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だからあなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」


十字架のヨハネ・テレジオ