2010年8月12日木曜日

偽りの善行-- ある活動派クリスチャンの事例

 Aさんは、高齢で病気がちの母親と二人暮らしです。

 Aさんは、様々な教会の奉仕やボランティア活動に、非常に熱心に参加し、ほとんど毎日、外を出回っています。この人の熱心な奉仕は、多くの人から誉められ、本人もそのことを快く思い、自分が熱心な隣人愛の実践者であることを誇りに思っています。

 さて、Aさんが、一日の活動を終え、帰宅すると、そこには洗濯もされていない下着を身にまとい、汚れた布団に臥床している母親がいます。Aさんはそのことに気にも止めず自分の食事を済ませたら、そのまま自分の居室に入り、一日の出来事を日記に記入した後このような祈りを始めました。

 「神様、私は今日も多くの隣人愛の行いをして、あなたのみこころにかなうことができましたことを、感謝します。明日もまた、多くの人に愛の奉仕ができますように」
 と祈った後、そのまま自分の床に入りました。

 さて、この事例を読んで、なにか違和感を感じないでしょうか。なにかおかしいと思わないでしょうか。なにかが狂っていると思わないでしょうか。このことは決して特殊な事例ではありません。

 自分の身近にいる、病んでいる人、苦しんでいる人、困っている人、争っている人を知らずして、やれ、隣人愛だ、社会正義だ、世界平和だと高らかにラッパを吹き鳴らす人は何者でしょうか。

 自分自身の内に、病んでいる人、心貧しい人、罪深い人がいるのを知らずして、どうして、真摯に他者を思いやり、誠実な善い行いができるのでしょう。

 今の時代の教会に多くの偽善がはびこっていることに、心痛めざろう得ません。

聖書のみことば

 マタイ 6:1-4

 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だからあなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」


十字架のヨハネ・テレジオ