2010年9月6日月曜日

神の栄光の現れ 闇のうちにこそ

             
聖書のみことば    マタイ 27:45,46 (新共同訳)

 「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時ごろ、
イエスは大声で叫ばれた。『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、
わが神、なぜお見捨てになったのですか。』という意味である。」

 聖書の中には、多くの「神の栄光の現れ(シェカイナ・グロリア)」の記述があります。福音書の中では、皆さんが良くご存じなのが「山上の変容」でしょう。しかし私が思うには、最も端的なものとは「ゴルゴダの十字架」ではないでしょうか。この十字架を包む闇こそが、最も純粋な「神の栄光」ではないかと。
 十字架の聖ヨハネは「純粋な神的光に照らされると、人にはそれが闇のように見える」という主旨のことを語っていました。
 私たちは、神の光に照らされれば、照らされるほど、自らの内の闇が露わにされ、自分の心の醜さ、罪深さが鮮明にされます。そしてそのことは、その人にとって苦しみとなることもあるでしょう。そしてその闇が自分自身を包み込むとき、たとえその人がどんなに熱心な信仰者であったとしても(否、むしろ熱心な信仰者ほど)神様の存在が、天国の存在が解らなくなることがあります。しかしその闇の中にあっても、ひたすら信仰のうちに前に進むとき、その闇は自分の内につきまとっている様々なエゴやとりとめのないことに対する執着心など、罪の基となる不純物をはぎ取っていく、「浄化の闇」となるのではないのでしょうか。

 私は、この頃の教会が、人にとって心地よく、好ましく思えるメッセージばかり語られていることに、何か懸念を感じざろう得ません。十字架の聖ヨハネの著作の「カルメル山登攀」にある「完徳の山」の図には、慰めや喜びばかりを求める道は「不完全な霊の道」とされています。
たしかに「不完全な道」を歩む人も、本当に信仰のある人なら、救われるのですが、はたして、約束の御国・永遠の都の栄光にあずかれるかどうかは、神のみの知るところです。
 ちなみに「完全な道」とは、狭く険しい一本道であり、そこにあるのは「無」と「暗夜(闇)」です。

 私たちキリスト者の信仰とは本来「十字架の道」であるはずです。今、目の前にあるのは闇です。
しかしその彼方に今は、目に見えない約束の栄光に包まれた御国があることを、私たちは確信しています。(しているはずです!)この確信がなかったら、一体クリスチャン人生に何の意味があるのでしょうか。


                                                                                    十字架のヨハネ・テレジオ