2010年11月16日火曜日

本物の信仰とは? 愛のプライオリティ(優先順位)


はじめに

  日本語の「愛」という言葉は、なにか抽象的で曖昧な意味合いのように思え、使う人の立場によって様々な(都合の良い)適用がなされています。そしてその法則性は主の教会の中でも、至極当然のように浸透しています。

 しかしながら、みことばが語る[愛(アガペ)」とは決して抽象的なものではなく、それは極めて明確なものであり、かつ厳正なものではないでしょうか。まずここで「愛のプライオリティ(優先順位)」というものをみことばの視点から考えていきたいと思います。

 聖書のみことば   申命記 6:4-5
  聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。
 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

  マタイの福音書  10:37-39
  (イエスは語る)わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。
   わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。
  また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。

 聖伝的教訓 「キリストにならう」 第七章 すべてを超えてイエスを愛す
  イエスを愛して、イエスのために自分を軽蔑する(後回しにする)ことの真の意味を理解する人は幸いである。その愛は、すべての愛を超えるものでなくてはならない。なぜならイエスは、ご自分がすべてを超えて愛されることを望んでおられるからである。被造物への愛は、誤りやすく変わりやすい。しかしイエスへの愛は、誠実で不変のものである。

 これは、まさに上述の聖書のみことばの要約であるとともに、明確な説明でもありましょう。

 次に、カトリック教会の偉大な教会博士である十字架の聖ヨハネの著書である「霊の賛歌」から少し拾ってみます。

 霊魂と天の花婿(キリストのこと)との間にかわされる歌

 1.どこにお隠れになったのですか?
   愛する方よ、私を取り残して、嘆くにまかせて・・・・・
   私を傷つけておいて、鹿のように、あなたは逃げてしまわれました。
   叫びながら私はあなたを追って出てゆきました。
   でもあなたは、もういらっしゃらなかった。

 3.私の愛をさがしながら、私は行こう。
   あの山々を越え、かの岸辺を通って。
   花も摘むまい、野獣も恐れまい。
   強い敵も、国境を超えて行こう。

 *最愛のお方をひたすら追い求める者は、他のことは一切眼中になくなるでしょう。その慕い求める思いは全てを捨てて追いかけようとする行為へと駆り立てるでしょう。しかしその道のりは様々な障害や困難もあることでしょう。

 6.ああだれが私をいやせようか!
   どうか、真にあますところなく、あなたをお渡しください。
   もう今日からは私に使者を送らないでください。
  私がのぞむことを告げえないあの人たちを。

 *この熱い思いは愛するお方以外、だれも鎮めることはできません。また愛するお方との出会いを妨げる惑わしを一切拒絶することでしょう。
  
  他のすべてを超えてキリストを愛するとはまさにこのようなことでしょう。

  次に、神を愛することが、最も優先すべきことであるならば、では人に対してはどうなるのでしょうか。

 よく教会で聞く話はマルコ12章28節-33節の記述に基づき、第二位の掟として『隣人を自分のように愛しなさい』の言葉をもって、これこそ教会の愛の黄金律として、隣人愛の薦めをしています。しかしこの聖書箇所が語っていることはあくまでも旧約の律法の中でなにが最も大切かという問いかけに対する答えです。むしろ新約の掟として語られているのはヨハネ13章34節でイエス様が語られた事、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」ではないでしょうか。イエス様が「私があなたがたを愛したように」と言われるのであれば、そこに用いられる愛はもはや人間的な情愛ではなく、それ以上のものでしょう。また愛の対象も、もはや隣人ではなく、兄弟姉妹であり、共に生きる家族としてのものでしょう。

 では、次に自分自身に対してはどうでしょうか。

十字架の聖ヨハネの著書を読むと、よく「自己否定」とか「自己放棄」とか「自分に対する軽蔑」といった意味合いの事が書いてあり、それをもってこの聖人は極めて厳格で近寄り難しと思われがちですが、この事については、現代人の価値観に生きる私達が文字通りにとるべきではないでしょう。むしろこの聖人の教説の中心的なテーマは何かという視点でとらえるべきです。この聖人の教説の中心的テーマは「神との愛の完全一致」です。自分自身を完全に否定していたら「愛する」ことすら出来なくなるではないですか。

 では、この事についてはどのように考えるべきでしょうか。

 これはあくまでも私の私見による提案ですが「聖性に向かうための自己愛」というのはいかがでしょうか。

 聖性に向かうための自己愛とは
  おごることもなく、いたずらに自己卑下することもなく、おかしな自己認識や偏向した思想にとらわれることもなく、自己満足の追求に溺れることもなく、自己利益に固執することもなく、客観的に自分と向かい合い、その上で、たとえその自分がどのような者であったとしても神に多く愛されていることを識ること。ではないでしょうか。

 話が長くなってしまったので、ここでまとめてみます。
  愛のプライオリティは大きく分けて以下の三段階になるのではないでしょうか。

 第一位 神への愛・・・大いなる神の愛の応答として
 第二位 兄弟姉妹への愛・・神の愛をもって
 第三位 聖性に向かうための自己愛・・霊の賜によって

 この第三位のものが確かなものになればなるほど、第一位のものが確かなものとなり、第一位のものが確かなものになればなるほど、第二位のものも確かで豊かなものになっていきます。この循環が正常に働くことによって、本物の信仰や健全な教会の霊性の醸成へとつながるのではないでしょうか。これは一つの秩序でありましょう。もしこれらのことが一つでも軽んじられたり、逆転してしまったら、この秩序はたちまちのうちに崩壊してしまうでしょう。

 秩序なき教会の行く末はどうなるのでしょうか。とりわけ偽教師、偽預言者に対しては本物の信仰者たるもの、緊張感をもって警戒する必要があります。

 追記:これらのことはあくまでも私見に基づいて書いたもので、正式な手続きを経た、神学的根拠にもとずくものではないことを、とりわけカトリック教会の指導的立場の方々にはご承諾願います。

                                 十字架のヨハネ・テレジオ
引用および参考文献:
 「キリストにならう」 バルバロ訳  ドン・ボスコ社
 「霊の賛歌」 十字架の聖ヨハネ著 東京女子カルメル会訳 ドン・ボスコ社
 「カルメル山登攀」 十字架の聖ヨハネ著 奥村一郎訳  ドン・ボスコ社