2011年1月18日火曜日

役立たずがなんでいけないの? タオとキリスト

 年始のニュースで、昨年も自殺者が三万人を超え、これで13年連続となりました。というニュースを聞かされ暗澹とした思いになりました。実は私自身もかつて、この三万人の仲間入りをする半歩手前まで行ったのです。その時の私の心境は「もう絶望だ」とか、「もう疲れた」とか「もう死にたい」とかいうよりも、むしろ「私は役に立たない者となった、私は死ななければならない」という積極的ともいえる自殺願望があったのです。おそらく経済原理・効率優先を主体とする此世的価値観に支配されている社会から排除され、鬱の病になり自殺に向かおうとしている人の心境の多くは同じではないかと思うのです。ではなぜこのような思い込みにとらわれてしまったのでしょうか。
 今回は少し視点を変えて、別の入口から入ります。まずはじめに紹介するのは、中国古代の聖哲である 荘子 です。

 無用の用

荘子はこのことを、いくつかのたとえ話を用いて説明しています。その中でも特に有名なものは、あの著名な霊性の大家、ヘンリー・ナウエンも採用したものです。

荘子(内篇) 人間世篇 より

大工の棟梁の石が、斉の国を旅行して曲猿という土地に入ったとき、神社の神木になっている櫟の大木を見た。その大きさは数千頭の牛を覆い隠すほどで、幹の大きさは百かかえもあり、その高さは山を見下ろしていて、地上からは七、八十尺もあるところからはじめて幹が出ている。それも舟を作れるほどに大きい枝が幾十本とはり出ているのだ。見物人が集まって市場のようなにぎやかさであったが、棟梁は見返りもせず、そのまま足を運んで通り過ぎた。弟子たちはつくづくと見とれてから、走って棟梁に追いつくと、尋ねた。「われわれが斧や鉞を手にして師匠のところに弟子入りしてから、こんなに立派な材木は見たことがありません。師匠がよく見ようとせず足を運んで通り過ぎたのはどういうわけでしょうか」。棟梁は答えた。「やめろ、つまらないことを言うな。あれは役立たずの木だ。あれで舟を作ると沈むし、棺桶を作ると腐るし、道具を作るとすぐに壊れるし、門や戸にすると樹脂が流れ出すし、柱にすると虫がわく。全く使いみちのない木だよ」。 さて、その後、棟梁の石が(旅を終えて家に)帰ると、神社の木が夢に現れて、こう言った。「お前はいったいこのわしを何に比べているのかね。お前はおそらくこのわしを(お前たちにとって)役に立つ木と比べているのだろう。いったい梨や橘や柚などの木の実や草の実の類は、その実が熟するとむしり取られもぎ取られて、大きな枝は折られ小さな枝は引きちぎられることにもなる。これは人の役に立つというとりえがあるということによって、かえって自分の生涯を苦しめているのだ。だからその自然の寿命を全うしないで若死にすることにもなるわけで、自分から世俗に打ちのめされているものなのだ。世の中のものごとはすべてこうしたものだ。それにわしは長い間、役に立たないことを願ってきたが、死に近づいた今になってやっとそれがかなえられて、そのことがわしにとっておおいに役だっていることになる。もしわしが役に立つ木であったら、いったいここまで大きくなることができたであろうか。それにお前もわしも生き物であることには全く同じなのに、どうして相手を物扱いして決め付けることができよう。(お前のような)今にも死にそうな役立たずの人間に、どうして役立たずの木であるわしのことが解ろうか。
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 このメッセージのポイントは、(小さな)視点での決め付けは他の(大きな)視点で視たら全くナンセンスなこともある。ということです。
 この無用の用にはひとつの前提となる思想があります。

荘子(内篇)  逍遙遊篇  より

 北の果ての海に魚がいてその名は鯤という。鯤の大きさはいったい何千里あるのか見当もつかない。(ある時)突然形が変わって鳥となった。その名は鵬という。鵬の背中はこれがまったくいったい何千里あるか見当もつかない。ふるいたって飛びあがると、その翼はまるで大空一杯に広がった雲のようである。この鳥は海が荒れ狂うときになると(その大風に乗って)飛びあがり南の果てへと天翔る。南の果てにあるのは天の池である。[中途省略] 蜩や小鳩がそれ見てあざ笑って言う。「われわれはふるいたって飛びあがり、楡や枋(まゆみ)の枝につきかかってそこに止まるのだが、それさえ行き着けないときもあって地面にたたきつけられてしまうのだ。どうしてまた九万里もの上空に上ってそれから南を目指したりするのだろう。(おおげさで無用なことだ)
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 さて、この鵬なるハイパー鳥は、ひとたび飛び上がれば、天空はるかかなた(宇宙空間)にまで上って、自由飛翔するのです。そしてその飛翔の目的地は天の池です。 地上の狭々しい所にいる蜩や小鳩達にとってはこの鵬の大世界のことは解る術もありません(これはこれで良いのですが)。しかしながら彼らが鵬のことをせせら笑っている(これが問題)のは彼らがいる狭々しい世界が絶対世界だと思い込んでいるからです。
 荘子やその先師にあたる老子は、これらのことを集約化した概念として、道(タオ)というものを説明しています。老子や荘子はこの道(タオ)がどのようなものかは説明しています。・・それはいわば万物普遍の根源即のようなもの。
 しかし老子や荘子はそのそのもの(の実体)が何であるかという説明はなされていません。私たちは聖書によってそのの実体が何であるかという啓示が与えられているのです。それは 「わたしは道であり、真理であり、いのちである」(ヨハネ 14:6)と宣言されたお方。即ち 生ける神のみことば イエス・キリストです。

 さて、話を少し戻しますが、聖書にある私たちの本来の在り方とはどのようなものであったかということから説明します。

 聖書のみことば 創世記 1:31

神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。

 つまり、私たち人間も含めて、始めに神がお造りになったものは、すべてが極めて良かったのです。しかし私たち人間の内に 罪 が入り込みました。ちなみに聖書が語る罪とは、私たち人間が此世的価値観で思い込んでいるものとは違うものです。教会ではこのことを「的外れ状態」とか、「道から外れた状態」という説明をしていますが、ここではのことを取り上げているので、このことは「本来在るべきから外れた状態」ということで説明させていただきます。私たちは、本来在るべきから外れてしまったため、失楽園状態となり、しかも他の被造物も巻き添えにしました。そして人間はそのことを何とかしようとして、狭々しい人工的社会を造り上げました。しかしその内には普遍の真理などあるはずもないので、その内には諸悪と混乱で満ちあふれるばかりでした。そして人間はそのことを何とかしようとして様々な偶像を造りました。・・ここでおことわりするのは、偶像とは、必ずしも目に見え、形のあるものとは限らないのです。たとえていうならば、神無し人倫道徳論なども偶像の一つです。人間は偶像から派生する此世的価値観に束縛された者となり、そのことを基準とした、思い込みや決め付けに心が支配されてしまいました。そしてその結末が「自滅へ向かう道」を歩む者となったのです。「私は死ななければならない」という思い込みもその「自滅へ向かう道」を歩んでいるためです。私たちは「自滅へ向かう道」へと導く此世的価値観から解放されなければなりません。
 では、それはどうすれば良いのでしょうか。それは「本来在るべき」に立ち返ることですが、このことは何も、苦しみ抜きながら登りゆくということではないのです。むしろこのそのものであるお方、即ち 生ける神のみことば イエス・キリストを我が身に受けるのです(注記:我が身の事として    ではありません)。このお方によってこそ私たちは「自滅へ向かう道」や私たち人間を束縛している此世的価値観から解放され、真の自由、真の平和を得ることができるのです。 ・・・・ですから皆さん、真の自由、真の平和を得るためにも、解放主 イエス・キリスト を我が身に受けてください。

解放主 イエス・キリストへの愛をこめて           十字架のヨハネ・テレジオ

参考および引用文献
荘子   内篇     金沢治 訳注    岩波文庫

2011年1月6日木曜日

隠されたみことばが結ぶ実
 サンダー・シングとドノヴァーから

聖書のみことば  ルカ 10:21

  そのとき、イエスは聖霊によって喜びにあふれて言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵のある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした」。

           マタイ5:11

 私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことで あらゆる悪口を浴びせられるときあなた方は幸いである。

 さて、神様の恵みは煮詰まったところよりも、貧しく、渇いた、小さなところにより多くありそうですね。今回も又、サンダー・シングの書からと、あともう一つ、インドにあった実話から紹介させていただきます。

 まずは、サンダー・シングの書から
イエス・キリスト 封印の聖書」第二部 講演録 第三章キリストについて知ることと、キリストを知ること    よりの引用 

 昨年、チベットにいたときに、わたし(サンダー)は驚くべき話を聞きました。ある少女がイエス・キリストについての話を聞いて、主を愛するようになりました。師にあたる仏教の僧はこの少女を憎むようになり、ある日、まだ13歳のこの娘は三日間、水も食物もない部屋に閉じ込められました。彼女にとってはこれは苦しいことでありましたが、自分がイエス・キリストを信じ、そのために独房に入れられたことについては苦しいとは思いませんでした。彼女はその間ずっと祈り続け、幸せな気持ちになり、イエス・キリストについていい知れぬ歓びを覚えるようになりました。三日経って、僧侶が独房に足を踏み入れると、少女がとても幸せそうなのに驚きました。僧の話によると、彼女は「自分はキリスト信者になった」と言ったそうです。「キリストについて何を知っているのか」と僧は聞きました。すると、少女は「あまり知識はありません。でも、一つはっきり言えることがあります。わたしはキリストを知っているのです」と答えました。「愚かな娘だ。お前は文盲ではないか」。と僧は言いました。これに対して娘はこう答えました。「わたしは、親よりもあの方を知っているのです。わたしは親を愛しています。親からも愛されていますが、わたしは、あの方を知っているのです。イエス・キリストはわたしの中にいてくださり、この世界が与えることも、取り去ることもできない生命を与えてくださいます」。僧は「愚かな娘だ」と繰り返すと、また24時間、少女を飲まず食わずのまま独房に監禁しました。それから、また「居心地はどうか」と声をかけました。すると、彼女、疲れているどころか、賛美歌を歌い、歓びで一杯でした。それからまた、2日、3日と監禁され、三日目に戸を開けると、この読み書きできない少女は、相変わらず歌い続け、驚くばかりの平和と歓喜に満たされていました。ラマは告白しました。
「あなたこそ、わたしの師匠だ。わたしは老いて、あなたはまだ13歳の子供だが、わたしはあなたの弟子だ。あなたは、わたしの持っていないものを持っている」と。
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 次に紹介するのはサンダー・シングより少し前の時代にインドで、実際にあった実話です。

 ある所に最下層のカースト(ハリ・ジャンと呼ばれている)の貧しい村がありました。そこに一人の少女がいました。その少女の名は ミモサ といいます。ある時、この村に英国人の女性の宣教師が立ちよりました。その人の名はエミー・カーマイケルという人です(この人は日本にも来ています)。この人は少しの間、この村に滞在し、子供たちに話をしていました。 ミモサ はこの人の話のある言葉を心の中に刻み込みました。それは「この世界を造られた父なる神様はあなたを愛しています」というものでした。それ以来 ミモサ はいつも「父なる神」のことを心に留めていました。ミモサはやがて、カーストとヒンドウーの掟に縛られた人々の生活の中で、次第に浮いた存在になっていきました。習慣的におこなわていたシヴァの灰を額に付けるのを拒むようになってからは、親族や周囲の人々から、忌み嫌われるようになりました。また、近くに居た小さなクリスチャン共同体の人々からも、完全に無視されていました。ミモサにとっては、父親だけが、唯一の理解者だったのですが、その父親もやがて亡くなりました。ミモサは本当に孤独の中にいました。それでもミモサは「父なる神」を心に留めていました。ミモサはやがて成長し、一人の夫の妻となり、幾人かの子供を授かりました。ミモサは子供たちを、ヒンドウーの掟によってではなく、「神の愛」によって育てようとしましたが、そのことは親族や周囲の人々から大非難されました。ミモサの家庭ではその後、不幸が次々と起こりました。人々はそのことをこう評し、ミモサをののしりました。「あの女は女神様に捧げ物をしないからこのような事になるのだ。あの女は魔付き女だ」。

 ミモサはある時から「父なる神」に向かって、「お父様」と呼びかけるようになりました。それからしばらくしてからミモサは心の中にある呼びかけを聞きました。「ドノヴァーへ行きなさい」。ドノヴァーという所はインドの南端にある小さな村なのですが、そこには「ドノヴァー・フェローシップ」というクリスチャン共同体がありました。その「ドノヴァー・フェローシップ」の設立者は、何と、エミー・カーマイケル師だったのです。その当時、「ドノヴァー・フェローシップ」でおこなわれていたことは、神殿娼婦として売られていく、貧しいカーストの少女たちを救出し、暖かい家庭と適切な教育を提供していました。ミモサはやがて二人の幼子を連れて、家を出ました。長く辛い旅の後、やっとの思いでドノヴァーに付きました。ドノヴァーの村の入り口で、ミモサは一人の白人の女性を見ました。ミモサはその人が23年前に、「父なる神」を教えてくれた人、エミー・カーマイケル師であることがすぐに解りました。エミー師もミモサを見たとき(その姿は苦難の人生のため、実際の年齢以上の姿でした)23年前に立ち寄った村で出会ったあの少女、ミモサであることが解りました。二人は抱擁し合い、涙を流して再開の喜びを分かち合いました。

 ミモサのこの23年間の道のりはまさに荒野の旅でした。しかし忠実であり続けたミモサを神様は確かに約束の地へと導き入れたのです。

★★
 私達は大量の様々な知識や情報に囲まれています。しかし、どんなに知識や情報を手に入れたところで、それが本物の信仰につながるということではないのです。むしろ、ほんのわずかな隠されたみことばが、単純素朴な人の魂に刻み込まれたとき、それは豊かな実を結ぶのではないでしょうか。

 最後に、テゼ共同体の設立者 ブラザー・ロジェの言葉をもって閉めさせていただきます。

 単純素朴な神への憧れ、それが(真の)信仰の始まり

聖主キリストへの愛をこめて                 十字架のヨハネ・テレジオ

引用および参考文献
イエス・キリスト 封印の聖書 サンダー・シング 林陽 訳    徳間書店
ミモサ        エミー・カーマイケル 一柳高明 訳 いのちのことば社
ドノヴァーの碧い空 エミー・カーマイケルの祈りと生涯   いのちのことば社