2011年3月1日火曜日

イエスのみ腕に抱かれて
 ファニー・クロスビーと聖テレーズ

 私は、このごろ、盲目の賛美詩人ファニー・クロスビーと幼いイエスの聖テレーズ(一般名称:リジューのテレーズ)の霊性がとてもよく似ていることに気付いたのです。
 この両者は、生まれた国も、時代も、生い立ちや生涯も、背景の教会も違います。しかしなぜこれだけ似ているのでしょうか。今回は私の知る範囲内の情報を紹介しながら、このことを探っていきたいと思います。

まず、始める前に

聖書のみことば    イザヤ 66:12-13a

 主はこう言われる。見よ、わたしは彼女に向けよう
 平和を大河のように 国々の栄えを洪水の流水のように
 あなたは乳房で養われ、抱いて運ばれ、膝の上であやされる
 母がその子を慰めるように わたしはあなたを慰める。

 盲目の賛美詩人ファニー・クロスビー(正式名:フランシス.J.クロスビー)

 1820年3月24日、ニューヨーク州の片隅の貧しい家に生まれる。父はすぐに亡くなり、母親と敬虔なキリスト者の祖母のもとで、育てられました。生まれて六週間くらいのときに、目に異常が見つかり、医師の治療を受けたところ、医師が重大なミスを犯してしまい、失明してしまいました。ちなみにこの医師は、町の人々から大非難され、失踪してしまったそうです。また、これは後々のことですが、ファニー女史はその自伝の中で、このようなことを書いています。「もし私がこの医師に会ったらこのように申し上げたいのです。『このことはあなたにとっては(医師として)ミスかも知れませんが、神様にミスはないのです。むしろこのことは私にとっては恵みなのです。私はこの事を感謝しています』 」・・・・これは何というAmazingGrace  ・・・ 

 ファニー女史は大いなる神の恵みと豊かな詩の賜を受け、特にその詩の賜をおおいに発揮しました。その詩のいくつかは、ポピュラー作曲家の目にとまり、その詩から作曲された歌は全米で大ヒットしました。しかし、本来、信仰心の厚いファニー女史はそのことに何かむなしさを感じていました。「私の詩が酒場のようなところで歌われている。そんなつもりではなかったのに・・・・」。
 ファニー女史はやがて、成長し自分が学んだ盲学校の教師として勤めるようになりました。その同僚である敬虔なキリスト者のへスター女史から賛美詩を書くように薦められました。しかしファニー女史はまだためらいがありました。「私の詩は酒場で歌われているのよ、そんな詩が聖なる教会で・・・・」。しかし本来、信仰深いファニー女史はへスター女史に教会に誘われているうちに、次第に賛美詩を書きためるようになっていきました。しかし、あるとき重大事態が起きました。全米で猛威をふるっていたコレラの魔手はこの盲学校にも襲い、へスター女史も、愛する生徒も亡くなってしまったのです。ファニー女史は大きな悲しみの中にいましたが、それでも少しずつ賛美詩を書き続けていました。その後、新任の音楽教師として着任したアレクサンダー・ヴァン・アルスタイン氏(この人も盲目の人です)と結婚し、盲学校の職を辞し、賛美詩を書くことに専念するようになりました。しかしながら、その時代の社会は障害者に大変冷たかったので、その生活は極めて貧しいものでした。しかしながら、一人の子供を授かり、一時の幸せを味わったのですが、やがてその子供も病死に、ファニー女史は大変な悲嘆の中にいました。
 そんなあるとき、ファニー女史のもとに、賛美歌などを手がける作曲家のウイリアムズ・ドーン氏が訪れ、自作の曲を弾いて聞かせました。するとファニー女史は「あら!それはイエスのみ腕に と言っているわ」と言ってたちまちのうちにその詩を書き上げたのです。 以下に、「イエスのみ腕に」の原詩の訳を紹介します。

  賛美歌・聖歌ものがたり 第15章 ファニー・クロスビー より

1. 安らかに、主イエスのみ腕にいだかれて 安らかに、やさしいみ胸によりそって
  主の愛の影におおわれて、私の心は憩います。ああ、あれは天使の歌声です。
     栄えに満ちた野山をこえて,碧玉の海をこえて、私の耳に響くのlは。

2. 安らかに、主のみ腕にいだかれるとき、やつれるほどの労苦を忘れ、
   世の誘惑から守られて、罪も私を損ないません。
   悲嘆によって砕かれた心も癒やされ、疑い恐れからときはなたれます。
   試練に涙することもあるでしょうが、それもしばしのことです。

3. 主イエスは私の避けどころ、主イエスは私の罪のために死にました。
  千歳のいわおによりすがり、とこしえに主を信頼します。
  この地上で忍耐をもって待ちわびます。闇夜が明けるまで、
  朝がふたたび訪れて、黄金の岸が輝く時まで。

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 艱難辛苦の人生を歩んできたファニー・クロスビーにとって、幼子の信頼をもって
イエスのみ腕にいだかれて、その身にすべてをゆだねていたとき、肉的には目が見えず闇のなかにいても、霊的には光り輝くみ国が見えていたのでしょうね。
 ファニー・クロスビーはその他にも、多くの賛美詩を書き、その数五千ほどといわれています。その多くは、聖歌・賛美歌となり、今でも世界中の人々に愛唱され続けています。 ファニー・クロスビーは、今までも、今も、これからもイエスの愛と希望を世界中の人々に送り届けているのです。

 では、次に 

幼いイエスの聖テレーズ

 本名:テレーズ・マルタン 正式修道名:幼いイエスと尊き面影のテレーズ 
 一般名称:リジューのテレーズ
  1873年 フランスのアランソンという街に、5人姉妹の末妹として生まれました。(実際にはこの両親には9人の子供が生まれたのですが、そのうちの4人は幼くして亡くなりました) この5人姉妹は全員修道女になっています。そのうちの4人は同じリジューのカルメル会に入りました。この両親も立派なキリスト者でした。
 テレーズが2歳のとき、母が帰天し、ノルマンディー地方のリジューという小さな町に引っ越ししました。テレーズは何か、幼いときから神からの召命を感じていたのですが、母代わりとなっていた姉2人が次々と修道女となってしまい、その志はますます強くなり15歳のとき、リジューの町にある跣足カルメル会という禁域の観想修道会(*1)の修道院に入りました。テレーズはその単調な修道院の生活の中で、人目につくことなく、日常生活の微細なことに神の愛を塗り込めていました。テレーズは23歳のとき、結核を発病し、その病のなかでの修道生活は、肉的にも霊的にも大変な苦しみの内にあったようです。とりわけ最後の半年間は毎日が十字架釘付状態でした。しかし、その中でもテレーズはイエスへの愛を告白し続けました。テレーズは24歳の秋のある日、真の公生涯を始めるために、天国へ連れ帰されました。

  *1 禁域の修道院とは、必要最小限以外には、外部との接触を断ち、日々、祈りと単純労働で共同生活を営む修道院のことです。

 テレーズは、よくイエスのことを「私のフィアンセ」と呼んでいました。これは今では当たり前のことなのですが(神学的にも大正解)この当時のカトリックの修道女としては極めて大胆な表現だったのです。
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 私のフィアンセは「どの国にいきたいか」とお尋ねになりました。それで小さいフィアンセは「愛の山の頂に参りとうございます」とお答えしました。「では、どの道を通って行こうか」とお尋ねになったので、「み旨のままに」と答えました。すると私のフィアンセは、私の手をお取りになって、暑くも寒くも風もない暗い地下道に連れて行かれました。この地下道で見えるものは、あのお方の伏せられた眼差しから放たれる光だけ。主は何も言いません。私も何も言いません。私も「主よ、自分自身よりもあなたを愛します」という意外には。〔手紙91]
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 さて、この暗い地下道の行き着く先はどこでしょう。それは何と、天に昇るエレベーターだったのです。
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 おお!イエスさま。私を天まで昇らせるエレベーター。それはあなたのみ腕なのです。ですから、私は大きくなる必要はありません。かえって小さなままでなければなりません。〔自C〕
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テレーズのメッセージの中で最も大きな位置を占めるのは「小さい道」と呼ばれるものです。テレーズは「小さい道」を説明するのに様々な表現を用いています。
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 小さな幼児が、階上にいる愛するパパのところに行こうとして階段を登ろうとします。しかしその小さな足は、1段目にも届きません。しかしそれでも小さな足を上げ続けます。それを見かねた愛するパパはたまらなくなって、一気に駆け下り、愛する我が子をそのみ腕に抱き上げ、一気に(エレベータで)登りました。
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 テレーズの「小さい道」は私たちに幼児のような信頼さえあれば、イエスの愛と希望を易しくわが身に受けることが出来るのだということを教えてくれました。

 テレーズもまた、今までも、今も、これからもイエスの愛と希望を世界中の人々に送り届けているのです。・・・・・それは、まるで天からのバラの雨を降らすが如く。
★★
 この両者のなした偉大なことにしては、ほんの僅かのことしか紹介できませんでしたが(全く少ない!)これだけを見ても、この両者の霊性はよく似ていると思われませんでしょうか。むしろ、似ているというよりも、この両者の信仰の本質性は同質のものであるかと思われます。では、その同質性は何かというと

  ひたむきに いつわりなく イエスを愛し 
 信頼して すべてをゆだねて

ということではないでしょうか。これこそが本物の信仰の道を歩む一番の秘訣かもしれませんね。

☆ 今回は、2人の大聖人(ちなみにファニー・クロスビーはメソジスト教会の人なので列聖制度はありません)のことを一気に取り上げたので話し足らずで申し訳ありません。今後、別々に少しずつ小出しに紹介させていただきます。(特にテレーズはたくさんあります)

私にとってもフィアンセ主
           イエス・キリストへの愛を込めて 十字架のヨハネ・テレジオ

参考および引用文献

賛美歌・聖歌ものがたり  大塚野百合    創元社
幼いイエスの聖テレーズの自叙伝
    テレーズ・マルタン 東京女子カルメル会&伊従信子 訳 ドン・ボスコ社
幼いイエスの聖テレーズの手紙  
    テレーズ・マルタン  福岡女子カルメル会 訳 サンパウロ社
ある人生のものがたり   G・ゴッシェ    徳山登 訳   聖母の騎士社
果てしない希望 リジューのテレーズ  菊池多嘉子   ドン・ボスコ社