2011年7月23日土曜日

心の祈りと鏡 ヘシカスムの「イエスの祈り」

まずは聖書のみことば  ローマ12:12

  希望をもって喜び、苦難を忍び、たゆまず祈るように

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私は長い間、カルメル会士に教えていただいた念祷(心の祈り)というものをしていました。・・・・というよりは、していたつもりだったのです。  しかしそれでも以前は、なにかしら心の中に平安らしきものを感じていました。しかしあの3.11以降、私の心は荒れすさみ、いくら祈ってもこのすさみはますます激しくなるばかりでした。 ちなみにカルメル会の中興の祖であるアビラの聖テレサは念祷について以下の定義をしています。

 イエズスの聖テレジアの自叙伝 第8章 第5節より
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 念祷(心の祈り)とは、私の考えによれば、自分が神から愛されていることを知りつつ、その神とふたりだけで語り合う親密な友情の交換にほかなりません。
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 つまり、私は自分で勝手に神様と親しく交わっていたつもりになっていただけのことだったのです。(即ち、具体性に欠き、観念だけが先走っていたのです)
 そこで、はてどうしたものかと考えていたところ、あることを思いだしました。 前回の投稿で、私は東方正教会の信仰と霊性に興味を持っているという主旨のことを書きましたが、正教会の特徴は壮麗かつ神秘的な典礼のほかに、単純素朴ながらも深淵な修道の霊性があるのです。現在この東方の修道の総本山とでもいうところが、ギリシャ北東部にある 聖山アトス です。正教の修道士たちの間でよく祈られている祈りが ヘシカスムの「イエスの祈り」 と呼ばれているものです。私は様々な文献を調べましたが、この「イエスの祈り」について、最も的確に説明している文献は「フィロカリア」というもので、これは正教会では「聖書」に次いで尊ばれている本ですが、西洋的キリスト教になれ親しんだ私達にとって、難解なため、比較的解りやすい文献からほんのわずかだけ紹介させていただきます。

 ちなみに私自身がおこなっている「イエスの祈り」を以下に紹介します。

・まず、なるべく人の出入りの少ない部屋に1人でいます。
・そして、床の上に座り込みます。
・次に、イエスの姿を描いたイコンを自分の目線と同じ高さになる位置に置きます。
・そして、イコンと向かい合ったままで、心を静めるために1回深呼吸をし、それから自然な呼吸に合わせて次のような祈りをゆっくりと、くりかえし唱えます。

 「主イエス 神の御子 罪あるわたしをあわれみください」

この祈りをくりかえし唱え続け、1時間くらいしてからでしょうか。 その時は時間の感覚がなくなってよく覚えていないのですが、あるとき 「あ! これは!」という気付きがありました。 それは目の前にあるイコンが私の内に住まわれるイエスを写し出す鏡のように思われたのです。もちろんこのイコンが物理的に鏡に変わったわけではありません。しかしこのイコンが鏡のように見えたのは何らかの形で、イエスが私と対話するために向かい合ってくださったのではないでしょうか。
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 では、つぎに私が調べた文献からいくつか紹介します。

  イエススの祈り  第1部 2 イエスの御名の呼吸 より
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 それは神秘の沈黙を探し、すべての思いを、たとえそれが許されるもののように見えるものでさえ、それを遠ざけ、心の深みにしっかりと根ざし、「主イエス・キリスト 神の御子よ 私をあえわれみたまえ」と祈るのに適している。時としてある人は「主イエス・キリストよ 私をあわれみください」としか言わないであろう。次には「神の御子よ 私をあわれみください」とさらに変えるだろう。[中途省略] しかし、あまり祈りの形を変えてはいけない。常に同じものであるようにすすめられている。この祈りを注意深く唱えながら、あるいは立ち、あるいは座り、あるいは横たわっているのだろうか。あまりせわしく呼吸せず、なるべくゆっくりと息を長く保つように心がけなさい。[中途省略]汚れた思いがあるのを精神の中に現れたなら、それに注意してはならない。かえって息を保ちつつ、精神を心の中に閉じ込めて、絶えず気を散らすことなく主イエスの名をよびなさい。そうすればこれらのものは見えないが、神の御名によって焼かれて逃れ去るだろう。

 次に、あるロシア人の巡礼者の手記である「無名の巡礼者」から紹介させていただきます。 まず、「イエスの祈り」の基本的な行い方について

 無名の巡礼者 第4の物語  より
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 (自然な)呼吸に合わせて「イエスの祈り」を心の中に入れたり出したりするようにつとめてください。それは、息を吸い込むときに「主イエス・キリストよ」、はき出すときに「私をあわれんでください」と心に感じるか、あるいは(口で)唱えるのです。そうすれば心の中に快い(霊的な)痛みをおぼえてくるようになり、さらに(霊的に)心全体が気持ちの良い温度で暖められてきます。 さて、これらのことが成し遂げられれば、その後は神様がいよいよ内的な祈りができるようにしてくださいます。もちろんこれらのことについては知恵(人間の浅知恵)による判断からくる一切の望みやその他の思いつきから遠ざかるようにしてください。内的な祈りをするときには何も〔余計なものは)見てはいけないと、聖なる師父たちがはっきりと語っています。

 次に、同じ「無名の巡礼者」のなかで、アトス山の修道士がこの祈りについての、より神学的な説明をしています。

 無名の巡礼者 第5の物語 より
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 「イエスの祈り」の奥深さはその言葉そのものの中に顕れてているのです。祈りはふたつの部分から成っていますね。はじめの「主イエス・キリスト 神の御子」という部分はイエス・キリストの史実を考えさせてくれます。もしくは教父たちが説明なさっているように、この部分自体が約された福音なのです。そして第2の部分「罪人の私をあわれんでください」は尋常でない方法で私達の弱さと罪深さの由来を伝えています。どうしてかとえば、卑しく取るに足らない、罪深い人間がこの言葉以上に根本的にまた、これ以上適切に哀願を表すことなどできはしないからです。他の嘆願のどれをとっても、この言葉ほど範囲の広い全体を含んだものは他には決してありません。たとえば、もし「私を赦してください。数々の罪の汚れを浄めてください。私から悪い所を取り去り、罪科を帳消ししてください」と祈るとすると、こうしした言葉は全部不安から発しており、罪を逃れようとする不甲斐ない怠慢な人間から生じる唯一の嘆願しか表さないでしょう。それに引き替え「私をあわれんでください」という言葉は、不安の結果である赦しを求める懇願だけでなく、子としての愛の誠実な哀願であり、神のあわれみへの信頼なのです。それは謙虚に己の弱さに気づいている、また己を見張っている手綱を緩めたことを知ている人間の哀願です。それは赦しと恩恵と、誘惑に打ち勝つための、また己の罪深い傾きを克服するための力を神に求めるための哀願です。これは貧しい借り主が、思いやりのある貸し主に借金を免じていただきたい、と頼むばかりか、自分の貧しさを思い遣って、恵みを請い願うのに例えられます。 「私をあわれんでください」という心からの言葉は、いわば「慈しみ深い主よ!私の罪を赦し、生き方を改善する力を与えてください。あなたのみ旨をおこないたいという熱い思いを抱かせ、私の思いと、心の意志があなただけに立ち返るようにしてくだえさい」とお伝えしているのです。
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 このヘシカスムの「イエスの祈り」は西方教会(カトリック、プロテスタント)などでは、インドのヨガなど東洋的瞑想と混同されがちですが、これはあくまでも、イエスと対話するための「心の祈り」でありアビラの聖テレサが語る念祷と本質的には同じものなのです。呼吸云々は精神を集中するための手段にすぎません。私が思うにはこの「イエスの祈り」の重要な要素は以下の2点に尽きると思います。

 ①ひたすら イエス の御名を呼び続けること。
 ②イエス(神)のあわれみと慈しみに全幅の信頼を持って自分自身を差し出すこと。

 もし、祈ることに行き詰まっている方や、より奥深い内的祈りに入って行きたい方はぜひこの「イエスの祈り」をお薦めします。根気よく続けていると、あなたの前にも、あなたの内に住まわれるイエスがあなたの前に霊的な鏡を置いてくださり、ご自身を写し出してくださるかも知れませんよ。

カルメル山からアトスを眺む    十字架のヨハネ・テレジオ(名前負け)

参考および引用文献

イエズスの聖テレジアの自叙伝 東京女子カルメル会 訳 サンパウロ
イエススの祈り  セル・パスツール    高橋正行 訳 あかし書房
無名の巡礼者  あるロシア人巡礼者の手記 斉田靖子、A・ローテル 訳 エンテルレ書店
修徳の実践   (「フィロカリア」よりの抜粋)  斉田靖子  訳 エンデルレ書店