2011年9月24日土曜日

神との関わり合い(関係性)の中で 
 祈りの生まれる時とは

 私の実質的指導司祭である跣足カルメル会上野毛修道院のN神父様はよく、信仰や祈りについて話をされる時、「関係性」という言葉を用いられます。つまり私たちキリスト者の信仰とは、神と人との「愛と信頼の関係性」なのです。関係性というのであれば、それは相互的なものであり、決して一方的なものではありません。まれにですが、「神様の愛は一方的なものです」などということを語る司祭や牧師の方がいらっしゃいますが、一歩的なものであれば、どうして、感謝や賛美をもって礼拝を捧げたり、祈ったりする必要があるのでしょうか。 祈りとは神との密接な関係性の中での交わりなのです。

 それでは、私たちにとって、祈りとはどのようなものであるべきなのでしょうか。そしてそれはどうなっていくのでしょうか。  このことについて、ソビエト政府の支配下のもとで、フランスに亡命され、その後、在英国ロシア正教会の指導者となられたアントニー・ブルーム大主教様がその著書「祈りの生まれる時」の中で、わかりやすく説明されておられます。

1)祈りの前提として  
  
*  引用:神の不在より
 まず第一に、祈りは神との出会いを求めること。神との関係を持つことだということを覚えておくのが非常に大切です。深い関係であっても、この関係は私たちの側にも、神の側にも無理強いできないものであることを。
**ここまで*

2)神の不在を感じるとき

 私たちは、大きな苦境に陥った時、神に即、とりさげてくださるように求めます。しかし何も答えがないとき、神の不在を感じるときがあります。

*引用: 神の不在より
 関係というのは、相互の自主性によって生まれ、発展していくべきものなのです。相互関係という点から神と人間の関係を見るとすれば、人間が神に抗議を申し出るよりも、神の方がはるかに多くの人間に不平をおっしゃる理由があることが分かります。人間はせっかく神のためにとっておいた数分から半時間の間に、神が存在を現してくださらないと不平たらたらですが、神が人間の心の扉をノックしておられたであろう23時間半というもの、私達が「忙しいので、すみません」と答えるのならまだしも、私達の心や知性や良心や人生にノックしておられるというのに、その音を耳にとめなかったために、返事一つしなかったことを何と申し開きできるでしょう。ですから人間は神が不在だからといって不平を言う立場にはないのです。神が不在でいるよりも、はるかに不在でいることが多いのは私達の方なのですから。
**ここまで*

3)神に対する人間のわきまえと、関わり合いの誠実さ

 ブルーノ主教様は、マタイ福音書の「ローマの百人隊長」とルカ福音書の5章に記されている大漁の奇跡の話を引用されています。まず、ローマの百人隊長ですが、この人とイエス様との関係は人間的視点の立場でいえば、支配者と被支配者です。この人が人間的視点の立場の上に立っていれば、イエス様を強引にでも連れて行くことができたでしょう。しかしこの人は何らかの形で、イエス様に神的権威を見たのでしょう。そこで彼は「私はあなたをお招きする資格さえありません」と語り、ただお言葉をいただければ、必ず願いは実現するという確信がありました。自分の人間的立場がどうであれ、聖なるお方に対するわきまえた姿勢こそが、良き関係性を築き上げていくものでしょう。ペトロの場合は、プロの漁師である自分が一晩かかっても、全く収穫がなく帰って来たときに、漁に関しては素人のイエス様が舟に乗り込んできて、網を降ろすように言われたところ、ペトロは言われるままに網を降ろしました。すると驚くほどの収穫が得られました。そのとき、ペトロはこのイエスという人はなにかとてつもなく偉大なお方であり、それに対して自分がいかにみじめで小さな存在であるかを悟りました。「主よ、私から離れてください。私は罪深い者です」(ルカ 5:8)

*引用:  神の不在 
 福音を読み、イエスの御姿が抗しがたく神々しく映るとき、神の偉大さと聖性に気づいて祈るとき、「神よ、私はあなたをお近くにお迎えできるような者ではありません」とへりくだることがあるでしょうか?  心が神の所に全く不在で、神をお受けしようとなどと思ってもいないために、神が人間に近づくことがおできにならないことに先ず気づかねばならないときには、ましてはへりくだりどころの話ではないのです。(その人は)神からのいただきものを求めているのであって、全然、神(ご自身)を求めているのではありません。これで神との関係を持つことだと言えるのでしょうか。友達との関係を考えてご覧なさい。そんな付き合いをしていますか?友情が与えてくれるものをあてにしているのですか。それとも愛しているのは友達そのものですか? 主に対しても、友達と同じようにしているでしょうか?
*ここまで**

 私達は得てして、自分の都合に基づいて、神様に向かいがちです。いったいどちらが 主 なのか?  と思ってしまうことがあります。しかし、人間としての自分をわきまえ、神を、真の 主(あるじ)として認めたうえで、神ご自身との関係性を豊かにしていければ、自分の人生も変わるのではないでしょうか。

3)神の国の門をノックするための注意事項

 ブルーム主教様が特に注意していることは、人間が造り上げた神のイメージと神そのものを同一視してはならないということです。それらのことは得てして、真の神との出会いの妨げになるからです。もしそれが、教会が大切にしているシンボル、例えば十字架やイコンなども真の神へ向かうための一つの道具として正しく用いられているのならば問題はないのですが、道具自体が神聖視されてしまったら、なにかおかしなことになります。またこれは「聖書」についてもあてはまることです。「聖書」に記されている(人にとって心地良い)ある言葉だけを取り上げ、神の全体像を勝手にイメージしてしまったら、神の国に入っても、どなたが本当の神様か分からなくなるのではないでしょうか? これはまさにヨハネ福音書8:39-40でイエスが語られている言葉、「あなた方は聖書の中に永遠の命があると研究している。ところが聖書は私について証しするものだ。それなのに、あなた方はいのちを得るためにわたしのところに来ようとしない」。と記されています。

4)神の国は私達の内にあり

* 引用:  門をノックするとは  
 でも、神の国はどこにあるのですか?福音は、神の国はまず第一に私達の内にあると教えています。自分の内にある神の国を見つけられないのなら、自分の内で、自分の深い心の奥底で神にまみえられないのだとしたら、ましてや私達の心の外でまみえる見込みははるか彼方です。 宇宙飛行に成功したガガーリンが、宇宙から帰還し、天では一度も神にはお会いしなかったという、彼の注目すべき声明を行ったとき、モスクワの司祭の一人が、「地上でお会いしなかったなら、天上でお会いすることはまず無いでしょう」と言いました。私の申し上げていることは、これについて事実であることを証明しています。私の存在するこの小さな世界で、心からの神との触れ合いを見つけ出せないとしたら、たとえ神と差し向かいで出会うことがあっても、私にはそれが神だと気づく見込みはほんの僅かしかないでしょう。 聖ヨハネ・クリュソストモスは「あなたの心の門を見つけなさい。そうすればそれが神の国の門だということに気づきます」と述べました。ですから注意を向けなければならないのは心の内面であって、外界ではないのです。
*ここまで**

 すなわち、神との出会いは、今ここにいる自分自身の心の内面でこそなされるのです。

5)ありのままの正直な心  自分にふさわしい祈り

 ブルーム主教様は、自分にふさわしく、また神にふさわしい祈りの言葉を薦めています。神の前で自分がどのような者かもわきまえず、神のレベルに自分を置く祈りの言葉を探そうとするのは無意味なことです。また、問題を何もかも扱おうとするのはやめて、素朴で素直な礼拝(祈り)の言葉や行為を薦めています。

*引用: 門をノックするとは  
 ユダヤの民間伝承にあるモーセの生涯に注目すべき一節があります。 モーセが砂漠で一人の羊飼いに会うという話です。モーセはその羊飼いと一緒に一日を過ごし、雌羊の乳搾りの手伝いをするのです。日暮れにモーセは、羊飼いが一番上質のミルクを木鉢に入れて、少し離れたある平たい石の上に載せたのを目にします。そこで羊飼いに、何のためにそんなことをするのかと尋ねるのです。すると羊飼いは「これは神様のミルクだで」と答えます。モーセは何のことか解らず、頭をひねって、どういうことなのかねと尋ねました。すると羊飼いは「おいらは、搾ったミルクの一番いいところを選んで神様への捧げ物にしているだよ」と答えるのです。モーセには素朴な信仰を持つその羊飼いに比べ、格段に優れた信仰があるので、「で、神様はそれをお飲みになるのかね?」と尋ねるわけです。「飲みなさるとも」と羊飼いは答えるのです。「ちゃーんと飲みなさるだ」 その時、モーセはこのなにも知らない羊飼いを少し教育してやろうという気持ちにかられ、神というのは純粋な霊でおられるから、ミルクを飲んだりなさらないのだよ。と説明して聞かせるのです。それでも羊飼いは、神様はたしかにミルクを飲みなさると言い張り、二人はちょっと議論を戦わせます。 結局モーセが、では、実際に神がミルクを飲みにくるかどうか茂みの中に隠れてごらん、と提案し、言い争いは決着します。それからモーセは砂漠で祈るため出かけて行きました。羊飼いは言われたとおり身を隠していると、砂漠から子狐が急ぎ足でやって来て、左右をキョロキョロと眺めてから、真っ直ぐミルクに近づきました。そしてミルクを一滴残らずきれいに舐め終わると、また砂漠へと姿を消したのです。その翌朝、羊飼いがしょげかえってうなだれているのに気が付いて、「一体どうしたんだね?」と尋ねると、「あんたの言うとおりだった。神様は純粋な霊だから、おいらのミルクなんざ全く欲しがりなさんだ」と羊飼いは答えました。モーセはびっくりするのです。そして「喜ぶべきではないかね。だって前より神様のことがよく解ったのだから」と言ったのです。「んだ、そりゃそうだ」と羊飼いは言うのです。「だどもおいらの愛を神様にお見せできるたった一つのことが取り上げられてしまっただ」と。モーセは ハッ と悟ります。そして砂漠に引きこもって一生懸命祈りました。その夜、幻の中で神はモーセに語りかけ「モーセよ、お前が間違っていた」とおっしゃいました。「わたしが純粋な霊であることは正しい。それでもわたしはあの羊飼いが彼の愛のしるしとしてわたしに捧げてくれるミルクをありがたく受け取っていた。とはいえ、わたしは純粋な霊ゆえ、ミルクはいらない。だからこの子狐と分け合っていたのだ。ミルクはこれの大好物なのでな」と。
*ここまで**

 どうも、神様は「正しい(知識による)信仰」にもとずく祈りよりも、素朴ながらも「純粋な愛」からでる祈りの方がお好みのようです。

 祈りを始めるに当たっては、それが自分にとって相応なふさわしいものであるかを吟味することは大切なことです。主教様は「あるがままの自分と全く正直な言葉、気の引けることのない言葉、自分をぴったり表す、自分にふさわしい祈りの言葉を選ぶことです」と語っています。どんなに美しい言葉で祈っても、それが自分自身の、心の在り方や実態とかけ離れていたら、何の意味があるのでしょうか。

6)日常生活の中での祈り(神との交わり)の習慣作りについて

 多忙と煩雑さの中で、時間的に極めて余裕のない、この時代に生きている私達にとって ・・ 特殊な生活環境で生きている人は別として・・ほとんど常に神に心を向けていることは、実際的には、極めて難しい話です。ではどうしたら良いでしょうか。 これは一つの提案ですが、一日のうち少なくとも3回、1回30分くらいは、朝・昼・晩 といった風に、神と2人だけで向かい合う時間をなるべく規則的にとってみたらいかがでしょうか(忙しすぎて3回は無理!と言う方は 朝・晩だけでも結構)。どのような時間配分で、どのようなやりかたでするかは、それぞれのやりかたで良いと思います。ただし、神と向かい合っている今という時にしっかりと身をおいてください。 もし、後に何かの予定が入っているようでしたら、終わる3分くらい前をめやすにタイマーをかけてみたら良いと思います。途中で中断するのは神様に対して失礼ですから。「今回はこれで終わらせていただきます」くらいのご挨拶くらいはすべきでしょうね。又、外からの割り込みに中断されぬよう、「ただいまお祈り中ですので、緊急度の高い用件でなければ、後ほどお願いします」くらいのアナウンスくらいは周囲の人々にするべきでしょう(ただしこの事はあまり極端にならないように)。 とにかくこの事をまず1年間、極力一日も休まず続けてください。そうすれば、やがてその祈りは毎日の生活習慣の一部となってくるでしょうし、それはまた、多忙のなかでのひとときの休息の時、瞬時に神様の方向にスイッチを切り替え、ごく自然に祈りの言葉や神への想いが出てくるのではないでしょうか。

9)たゆまず祈り継がれる最も基本的な祈りとは

 私達、カトリック信者は日課の祈りの中で、必ずといっていいほど「主の祈り」を唱えることにしています。しかしながら、自分の心の状態がどうしょうもなく追い詰められている時などには、様々な祈りの言葉はむろんのこと、「主の祈り」さえも出てこなくなることがあります。しかしそのようなときでも出てくる祈りの言葉があります。 「主よ、私を憐れみください、助けてください」。
 この祈りは、いわば、前回に紹介した、東方教会で古くから祈り続けられてきた、ヘシュカスムの「イエスの祈り」であり、また、西方教会(カトリック)で昔から祈り続け続けられてきた「キリエ・エレイソン(主よ、あわれみたまえ)」の祈りです。 
 ひたむきに、主の御名を呼び続け、憐れみや助けを求める祈り。 これは神により頼む人の心の奥底から出てくる最も基本的な祈りではないでしょうか。 また、これは、時代を超え、国境を越えて受け継がれてきた普遍 の祈りともいえましょう。

終わりに

 私は、かつて神は、どこか別の次元におられると思い込み、遙か彼方に向かって祈っていました。またその祈りも極めて外形的なものでした。 しかし神が私の内におられることを知ったとき、見栄の張ったきれい事の祈り、心にもない祈りなどできないことを悟りました。また、自分たちにとって都合良い「神のイメージ」を造り上げたところで、それは自分の心の中に造り上げた偶像であり、そんなものに祈っても、神との活きた交わりなどできません。 真の神との交わりには、まず真の神との本当の出会いが必要です。 人それぞれ、神との出会いの体験は異なりますので、どのようなことが神との出会いなのか、ということは申し上げられません。 しかし、真剣に神を求めていながら、まだ出会いの確信をもてない方には、根気よく、あきらめずに祈り求めていくように、エールを送ります。しかし、神との出会いを既にしていながら、まだ気付いておられないかも知れませんので、まずは祈りの中で問い続けてください。そうすれば、必ず応えは帰ってきます。

            内なる城に神を求む   十字架のヨハネ・テレジオ

参考および引用文献

祈りの生まれる時 神の国へのアプローチ 斎田靖子 訳 エンデルレ書店