2010年10月12日火曜日

本物の信仰とは? 事実の確認



聖書のみことば   ヘブライ人への手紙 11:1

信仰とは望んでいる事柄を確信(実体化)し、見えない事実を確認すること。

 ここで、私がプロテスタント教会に在籍していたときに愛読していた、ウオッチマン・ニー師の著作より、ひとつのエピソードを紹介します。


**以下 ウオッチマン・ニー全集 正常なキリスト者の信仰  より引用
 わたしには二人の同労者がいます。一人は倪という兄弟で、もう一人は李という姉妹です。二人とも最近クリスチャンの働きを始めたばかりですが、二人とも近眼です。二人は眼鏡をかけていました。李姉妹は主の前に出て祈りました。「主よ、あなたは盲人をいやされました。あなたはわたしに同じ事がおできになるのではないでしょうか。わたしは眼鏡をかけていては村々の巡回伝道にとても不便です。主よ、いやしてください」彼女はある村へ向かう途中、小さな汽船の上でこの祈りをしました。祈った後、彼女は神が彼女の求めを聞いてくださったことを知りました。彼女は内側に信仰があったので、眼鏡を川の中に投げ込みました。彼女はその結果、いやされました。その知らせを倪兄弟が聞きました。ある日、わたしの所に来て言いました。「神は李姉妹の目をいやされました。神は私にも同じ事をなさるだろうと信じます」。わたしは答えました。「あなたは、神はあなたをいやされるだろうと言いました。これは、あなたがまだその信仰を持ていないことを証明します。あなたはいやされないでしょう」。しかし彼は、神は一つの奇跡を行われるのであり、自分はそのような信仰を持っていると主張しました。二日後、彼は小さな汽船に乗っていました。彼は、祈り眼鏡をはずして水中に投げました。一ヶ月後、わたしは彼に会いました。すると彼は自分の目は少しも良くなっていないと告げました。神はまだ彼をいやしておられなかったようです。わたしは言いました。「12ドル払って眼鏡を新調したらどうですか?そのほうが賢いですよ」。彼は自分が古田に伝道に行くところだが、四ヶ月後に戻ってくると言いました。彼はその時までにいやされるであろうという信仰を持っていました。わたしは言いました。「もしあなたが四か月後に神があなたをいやされると思っているのでしたら、あなたは将来に信仰を置いているのです。これは本物の信仰ではありません」。

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 さて、このエピソードでは、李姉妹と倪兄弟は同じ祈りをし、同じ行為をしています。しかしその結果は決定的に違うものです。ではその違いは何でしょうか。
 まず、李姉妹は祈り終わった後、ただちに神が聞き入れてくださったことを確認しています。そして眼鏡はもう不要になったことを悟り、処分したのです。それに対して倪兄弟のものはあくまでも「であろう」の仮定に基づくものであり、彼が眼鏡を水に投げ入れたのはいわば「主を試す」行為であったのです。このことをしてニー師は、彼の信仰は本物ではないと評価したのです。


 まとめてみますと、ここで語られている本物の信仰とは、成就された事実を確認することに基づくものであり、将来おこるであろうという仮定は本物ではないということです。みことばの約束は、今は目に見えないことであっても、成就されている事実として確認すべきものなのです。私たちが確信を持てきれないのは日々、起きている神の(恵みの)みわざを確認していないからではないでしょうか。


このテーマはいろいろな話や証が出てきそうですね。次回はすこし違った視点から述べていきたいと思います。


引用文献:
ウオッチマン・ニー全集(第二期 第二十七巻)正常なキリスト者の信仰 日本福音書房