2011年11月7日月曜日

隣人愛の実践とは
 みなみななみさんの著書を読んで


 私達、教会に通うクリスチャンは、良く「隣人愛の実践はイエス様の大切な教えです」、と言われます。私の属する教会は、大変熱心にボランティア活動が積極的に行われています。近くに生活しているホームレスの人々のために、貧しい在日外国人のために、遠くの国の困っている人々のために。 それは見事なくらいに組織的に(効率よく)活動しています。これはとても大切なことであり、大変素晴らしいことだと思います。その活動に積極的に関わっている人に敬意を表します。ただ、少しだけ気になっているのは・・・これは極端な話ですが・・・もし会社勤めの人や、家庭の主婦が「私は隣人愛の実践をしなければならない!」という固い決意に燃えて、職場の人々や家族の充分な理解が得られないまま、四六時中、ボランティア活動に専念し続けているとしたら、その人の職場や家庭は一体どういうことになるのでしょうか?・・もちろん健全なクリスチャンの方で、そのような極端に走る方はいないと信じていますが。

 ところで、もし「隣人愛の実践」というものが、そのようなボランティア活動への参加や何かのチャリティーへの協力、といったもので測られてしまうとしたら、どういうことになるのでしょうか? 誰もがこのようなボランティアやチャリティーに参加できる訳ではありません。むしろそのようなことに関われる人はある種の恵まれた環境に居る人です。もちろんその恵まれた環境を有意義に用いることは素晴らしいことです。しかしそれができる人はむしろ少数派ではないでようか。ではそうでない人には「隣人愛の実践」はできないのでしょうか。
 しかし、人には、クリスチャンであるなしに関わらず誰でも、「日常生活」というものがあります。そしてその「日常生活」は常に、自分以外の誰かとの関わり合いで成り立っているのです。

 もう、かなり以前に読んだ本で みなみななみさんという人が書いた「信じたって悩んじゃう」という本に書かれてあったことを思い出しました。 この人の本業はイラストレーターで、何か、イラストをベースにしたデザインのプロモーションをされている方ですが、たしか、以前どこかの超教派のミッションで、アフリカやアジアの貧しい国々で、ワーカーとして奉仕されていたような記憶があります。 この本は一見すると、小学生でも書けそうな漫画本に見えますが(みなみ先生、失礼をお赦しください)しかしその内容は、真剣な信仰生活を歩んでいる人なら必ず直面する、様々な疑問、矛盾、葛藤などが、実に深い考察をもって書かれています。そのなかに「しずかなボランティア」というタイトルのショートストーリーがあります。
 
 ボランティアというと普通、福祉施設を訪問したり、ホームレスの人々のために、炊き出しをしたりとか、被災地に行って現地の人々のお手伝いをしたりとか、海外の貧しい国で井戸を掘ったりとか、難民キャンプで食料を配ったりとか、 そういうイメージがあります。 ここでみなみさんはある一人の女性を紹介しています。 みなみさんは「この人はそういう意味でのボランティア活動(隣人愛の実践)はしていませんが」と切り出します。するとその女性は「え! なんでそんな話に私が出てくるの?私は人のためになるような善いことなんかなにもしていないよ」と返します。 実は、この人は友達のことをとても大切にする人で、家事や子育てでくたくたになっている友達の所に尋ねて行っては、ニコニコしながら、その友達の愚痴の聞き役になっています。また病気の親戚の看病を長い間しているようです。この本ではこの二つの事例しか紹介されていませんが、それ以外にも色々なことをしているのでしょう。しかし彼女にとってはそれは毎日の日常生活のなかでのごく普通のことであって、自分がなにか、人のために善いことをしているという意識など全く無いようです。 みなみさんはこの女性のことでこのように書いています。「私なんか、彼女みたいに、毎日、いつも人のためにごはんを作ったり、買い物してやったりとか、そんなこととてもできない。むしろアフリカで奉仕していた時のほうがよっぽど楽でした」。
  おそらく、この女性に、「あなたは素晴らしい『隣人愛の実践』をしていますね」と言っても 「え! ”りんじんあい”って何ですか」という答えが返って来るでしょうね。私達クリスチャンはよく教会の中で「隣人愛」という言葉をよく聞きます。しかしよくよく考えてみてください。普段の生活のなかでそんな言葉をひんぱんに聞きますか?結局のところそれは教会の専門用語みたいなものになってはいませんか。ごく一部の人にしか通用しない用語を大上段にふりかざしても何の証にもなりませんよね。この女性には人を大切にしたりとか、こまやかな思いやりがごく自然に出てくるタイプの人なのでしょう。
 でもそのような思いやりやいつくしみの心というのは神様がどのような人に対しても、その こころ(ハート) の奥底に置いてくださる小さな「愛の灯」なのではないのでしょうか。しかしこの複雑怪奇な人間社会の中で生きていくうちに、次第にその こころ(ハート) は蝕まれ、深く大きな闇で包み込まれてしまい、「灯の光」も覆い尽くされてしまい、さらにはその闇のなかに、様々な歪んだものや、毒のあるものが住み着いてしまい、ときどきそれが外に出てきては、好ましくない人の振る舞いになっていくのでしょうね。 実はこの「闇」というものが実にやっかいなもので、ある種の「深層心理」とか「無意識の意識」とかいうもののなかにあるもので、人間の自助努力では払拭できるものではなさそうです。しかしながら、たとえ無意識の内にではあっても、こころ(ハート)の奥底に神様が置いてくださった「愛の灯」を大切にする何かしらの心の想いをいつも持ち続けているのなら、神ご自身がその灯に油を注ぎ込み、その光は闇さえも貫いていくのではないでしょうか。

 少し話がはずれますが、私達クリスチャンが昔から受け継がれてきた信仰の基本原則とはこういうものです。

 ①私(達)は誰よりも罪深くみじめな者であること。
 ②あわれみ深い神はそんな私(達)のために御子をつかわされ、その御子の尊い犠牲によって私(達)を救われたこと。
 ③そしてその私(達)が御子キリストのもとに召し集められた(これが教会)
 
 しかしながら、このごろの教会では特に上述①についての話があまり聞かれなくなっているように思われます。そして、これはあくまでも内輪の話ですが、なにか教会の発行する文書には「隣人愛の実践を積極的に行いましょう」とか「世界平和と社会正義の実現をめざしましょう」とかいうスローガンが目立ちます。「隣人愛の実践・・」はともかく「世界平和の実現」とか「社会正義の実現」とかいうことになると、何か自分たちが神様に取って代わろうとしているように感じるのは下衆の勘ぐりでしょうか。

 さて、話を戻しますが、このみなみななみさんが紹介した女性は、とても単純素朴な方のように思われます。こういう人のこころ(ハート)の中は、闇とか歪みとか、全く無いとはいいませんが、とても希薄で少ないのでしょうね。だからこそこころの奥底にある「愛の灯」の光がたやすく外に出てくるのでしょうね。

 前々回と前回は「奥深い東方教会の霊性」をテーマにしたため、様々な調べ事に大変でしたので、今回はだいぶ以前に読んだ、みなみななみさんの著書で軽く済まそうかと思っていましたが(みなみ先生、大変失礼しました)ところがどっこい、これってものすごく奥深いテーマでなにかまとまりのない中途半端な文書になってしまいましたことご容赦ください。今さらながら自分の軽率さを恥じるばかりです。

    内なる城に神(愛)はおられる 十字架のヨハネ・テレジオ

参考および引用文参献:

みなみななみの人生劇場 信じてたって悩んじゃう いのちのことば社

1 件のコメント:

  1. ぼくとつでほんわかした心の持ち主こそ、隣の人に末永く寄り添うことが、できるのだと思います。確かに大上段のボランティア精神は、どこかで隣の人を傷つけているのかもしれません。あまり深刻に考えることを止めて、まず自分にとってできることから、始めればよいのではないでしょうか?他人の目が気になるなら、休めばよいのです。

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