2011年2月10日木曜日

破れたテントでイエスのレッスン
 シスター・ブリージの証

 荒川の河川敷を歩いていると、青いビニール小屋のテントが目に付きます。その中にはぼろぼろに破れた穴の開いたテントもあり、この厳冬の中で生活している人のことを思うと心痛むばかりです。しかし、そんなことを言っている自分自身もその破れたテントであることをどれだけ自覚していることでしょう。
 今回紹介するシスター・ブリージという人は、癒しの賜で知られている人ですが、シスター・ブリージの癒しの賜とは、この頃のキリスト教界でよく行われているデモンストレーション的なものではなく、むしろローマの百人隊長(マタイ8:5-13、ルカ7:1-10)のようです。今回紹介するのはそれとは別の話です。

 はじめにシスター・ブリージの簡単なプロフィールを紹介します。

  本名: ブリージ・マッケナ
  1945年アイルランド生まれ。15歳で聖クララ姉妹会入会。誓願後、渡米し、24歳の時、重症のリューマチ関節炎の人の奇跡的な癒しがあり、1974年には司祭職への深い霊的洞察力をいただく。 以降、世界各地の司教や司祭たちから黙想会や講話などを依頼され、謙虚で献身的な奉仕を続けている。

まず、始める前に

 聖書のみことば
     ヨハネ 14:23


  イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人の所に行き、一緒に住む」

     ガラテア   2:20

  生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。

ブリージ・マッケナ 祈りー恵みの泉ー 
      第二章 主は打ち砕かれたテントに住まわれる よりの引用

破れたテント
 数年前、年の黙想会のとき、私はひどい誘惑で落ち込んでいました。その夜、考え得る全ての誘惑があったのです。翌日ミサ(聖餐式に相当するもので、カトリック教会では『感謝の祭儀』と呼んでいます)に行く道々、昨夜の悪い攻撃と誘惑のためにボロボロとなり、落ち込んでいるのを感じました。聖体拝領(ミサの要素の中核となるものです)の列を歩きながら、私は信仰告白をしました。「イエス様、私はあなたをお受けすると信じています。でも私はもうボロボロになってしまい、落ち込んでいます。あなたをいただくにはふさわしくないように感じます」と言いました。 ご聖体(聖餐のパンのことで、文字通りキリストの体)をいただく前は、このような気持ちでした。ところが、聖なるホスティア(ご聖体と同意)をいただいて、自分の席に戻ろうとしたとき、私ははっきりとしたテントのイメージを受けたのです。そのテントを見て、「まあ、あのみずぼらしいテントは本当にボロボロだこと!」と思ったことを覚えています。私はそれを念入りに見て「ひどい嵐で壊されたにちがいないわ」と言ったのも思い出します。自分の席についてひざまずいたとき、私は一人の男の人がテントに入ろうとしているのを見ました。そのイメージの中には私もいて、その人にこう言っていました。「ああ、そのテントに入ることはできませんよ。めちゃくちゃに散らかっています。ボロボロです。その中には大きな穴があるのです」。 その男の人はほほえんでこう言ったのです。「どういう意味ですか?わたしはその中に住んでいるのです」。 その瞬間、私は自分こそ、そのボロボロのテントだということがわかったのです!その夜中に感じた失望への誘惑や罪、イライラさせる全てのことで、私はボロボロに壊されていることに気が付いたのです。今イエスは、そのボロボロの私の内をご自分の家にしてくださっているのでした。それは私を非常に謙虚にさせました。私は今まで自分がボロボロのテントなどとは考えたこともありませんでした!  その時、イエスが私をテントの中に連れて行ってくださったようでした。 イエスがテーブルに座っておられ、私もイエスと共にそこに座っているのを見ました。イエスはテーブルの向こう側に座られ、私の両手を握って私に話しておられました。

 イエスが私に話してくださっていたとき、私はテントに目を向けて言いました。「まあまあこのテントを見てください!人々は何と思うでしょうか?こんなに散らかって!」 私はちょっと失礼してから、イエスの手から自分の手を離しました。椅子を引き、その椅子に乗って、そのテントの穴を封じようとしました。私は、「人がこの穴を見たらどう思うだろう」と考えていたのです。私はそのテントが人々の目に良く映るようにと、そればかり気遣っていました。
 イエスが私をやさしく下ろしてくださるのを感じたのはそのときでした。イエスは深い思いやりのこもったまなざしで私を見つめておっしゃたのです。 「ブリージ、もしあなたがこうした穴のことや、この穴を繕う作業にばかりに夢中になっていれば、わたしのことを忘れてしまうでしょう。でも、あなたがわたしに夢中になれば、そのときはわたしがあなたのテントを繕ってあげましょう」。 私は、誘惑や自分の罪のことなどで、心配したり、どのような始末をしたらいいかとか、他の人がどう思うかなど心配することに多くの時間を費やしていたことに気づきました。 悔い改めや回心は、私がイエスに夢中になり、イエスの方向に向き直るときに起こるのだ、と主は私に示してくださいました。イエスに向くとき、あなたは自動的に罪に背を向けるのです。
 [ 中途省略 ]
 主は第二のレッスンをそのテントを使って示してくださいました。
再び、私はイエスと共にテーブルについていました。テントの外をのぞいてみると、多くの問題を持った人々、病人、苦境にある人々がテントの方に来るのが見えました。私は、「ああ、この人たちは、私を必要としているから、私が行かなくては・・・・・・・」と言いました。「やれやれ、こうした問題を全部どのように処理したらいいのかしら?こんなにたくさんの人々・・・、そしてこんなに多くの問題を?」と言っていました。テントの入口に立って、彼らをどうやって助けようと考えていたとき、再び私を引き戻すイエスの御手を感じました。イエスは人差し指を動かして、ほほえみを浮かべておっしゃいました。「彼らはあなたに問題を解決してもらいに来るのではないのです。彼らはわたしがあなたの内に住んでいるから、ただそれであなたの所に来るのです。もしあなたが立ち上がって『私がこれをしなくては・・・』と言えば、そのとき、あなたはわたしがいやし主であり、わたしが平和をもたらす者であることを忘れてしまうでしょう。病人をいやすのはわたしです。 あなたは、ただ道具になってもらいたいのです。ですから、あなたは今日はただ座っているだけで、わたしをドアの所に行かせてごらんなさい」 私はイエスに「わかりました。今やっとあなたを信頼する人は失敗することがない。という意味がわかりました。もし私が自分でやろうとすれば、私は失敗してしまうでしょう」。と言っている自分を発見しました。
***
 このレッスンの証のメッセージポイントは次のようなものになるのではないでしょうか。

① 私(達)こそがボロボロの破れたテントであることを識ること。
② この破れたテントにイエスが共に生活してくださること。
③ この破れたテントの修復は私(達)ではなく、イエスがしてくださる。私(達)はイエスに夢中になっていれば良い。
④同じ河川敷の、破れたテントに住む、隣人たちの苦境状態を私(達)が何とかしようとするのではなく、イエスが私(達)を道具として用いて、必要(以上)なことをしてくださる。
★★
 アウトドア生活に縁のない私にとって、テントのイメージは今ひとつピンとこないのですが、街の裏側にある、いつ撤去されてもおかしくないような、崩れかかった廃屋のようなものかなという気がします(いやいやそんな上等なものではないですね)。しかしこのような所にも、否、このような所にこそ、イエスは一緒に住んでくださるのでしょう。

同居主 イエス・キリストへの愛をこめて     十字架のヨハネ・テレジオ

参考および引用文献
祈り―恵みの泉―    ブリージ・マッケナ     聖母文庫

2 件のコメント:

  1. ボロボロのテントのようなわたしたちの内に、イエスさまが一緒に住んでいてくださる、そのことに気づくこと。
    でもそのときあわててテントを繕おうとするのではなく、イエスさまに「夢中になって」いること。
    そうしたら、いやし主であるイエスさまがすべてをよくしてくださる。
    --シンプルでわかりやすくて、深いメッセージだと思いました。
    シスター・ブリージのお名前だけは耳にしていましたが、初めてちゃんと読ませていただきました。ありがとうございます。

    自分のありのままの(思っているよりかなりひどい?)姿を見て、そこに神さまがいてくださることを悟るとき、ほんとうの出会いをいただくようです。
    でも出会いの衝撃が少し落ち着いてくると、テントの破れ(自分のも人のも)が気になって、あちこちに気を散らしがちになってしまう。
    そんなときイエスさまはしずかなしずかな声で、こう言われるようです。

    「わたしに委ねなさい。もっとわたしに委ねなさい。そうすれば、すべてがうまくゆく。あなたはわたしに従いなさい。」

    幼いイエスのテレーズのこんな言葉も思い出しました。

    「イエスさまと目を見合わせます。イエスさまと目を見合わせて、それが、自分のみじめさの認識とともに、すべてをいやします。」

    神に感謝。

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  2. ナキウサギさん
     コメントありがとうございます。

     シスター・ブリージにしろ、聖テレーズにしろ、あと今日久しぶりにビデオ映画を見た、盲目の賛美詩人 ファニー・クロスビーにしろ、時代も国も教会も違いますが、その信仰の本質は同じなのですね。(それは、つつましくも、素朴で美しいもの)こんど機会があったら、聖テレーズとファニー・クロスビーを並べて紹介する計画もたてています。おそらくカトリックの方と思われるナキウサギさんには、ファニー・クロスビーのことはあまりご存じないかも知れませんが、この人のことを知ると、本当に心打たれますよ。

    これからもよろしくお願いします。

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