年始のニュースで、昨年も自殺者が三万人を超え、これで13年連続となりました。というニュースを聞かされ暗澹とした思いになりました。実は私自身もかつて、この三万人の仲間入りをする半歩手前まで行ったのです。その時の私の心境は「もう絶望だ」とか、「もう疲れた」とか「もう死にたい」とかいうよりも、むしろ「私は役に立たない者となった、私は死ななければならない」という積極的ともいえる自殺願望があったのです。おそらく経済原理・効率優先を主体とする此世的価値観に支配されている社会から排除され、鬱の病になり自殺に向かおうとしている人の心境の多くは同じではないかと思うのです。ではなぜこのような思い込みにとらわれてしまったのでしょうか。
今回は少し視点を変えて、別の入口から入ります。まずはじめに紹介するのは、中国古代の聖哲である 荘子 です。
無用の用
荘子はこのことを、いくつかのたとえ話を用いて説明しています。その中でも特に有名なものは、あの著名な霊性の大家、ヘンリー・ナウエンも採用したものです。
荘子(内篇) 人間世篇 より
大工の棟梁の石が、斉の国を旅行して曲猿という土地に入ったとき、神社の神木になっている櫟の大木を見た。その大きさは数千頭の牛を覆い隠すほどで、幹の大きさは百かかえもあり、その高さは山を見下ろしていて、地上からは七、八十尺もあるところからはじめて幹が出ている。それも舟を作れるほどに大きい枝が幾十本とはり出ているのだ。見物人が集まって市場のようなにぎやかさであったが、棟梁は見返りもせず、そのまま足を運んで通り過ぎた。弟子たちはつくづくと見とれてから、走って棟梁に追いつくと、尋ねた。「われわれが斧や鉞を手にして師匠のところに弟子入りしてから、こんなに立派な材木は見たことがありません。師匠がよく見ようとせず足を運んで通り過ぎたのはどういうわけでしょうか」。棟梁は答えた。「やめろ、つまらないことを言うな。あれは役立たずの木だ。あれで舟を作ると沈むし、棺桶を作ると腐るし、道具を作るとすぐに壊れるし、門や戸にすると樹脂が流れ出すし、柱にすると虫がわく。全く使いみちのない木だよ」。 さて、その後、棟梁の石が(旅を終えて家に)帰ると、神社の木が夢に現れて、こう言った。「お前はいったいこのわしを何に比べているのかね。お前はおそらくこのわしを(お前たちにとって)役に立つ木と比べているのだろう。いったい梨や橘や柚などの木の実や草の実の類は、その実が熟するとむしり取られもぎ取られて、大きな枝は折られ小さな枝は引きちぎられることにもなる。これは人の役に立つというとりえがあるということによって、かえって自分の生涯を苦しめているのだ。だからその自然の寿命を全うしないで若死にすることにもなるわけで、自分から世俗に打ちのめされているものなのだ。世の中のものごとはすべてこうしたものだ。それにわしは長い間、役に立たないことを願ってきたが、死に近づいた今になってやっとそれがかなえられて、そのことがわしにとっておおいに役だっていることになる。もしわしが役に立つ木であったら、いったいここまで大きくなることができたであろうか。それにお前もわしも生き物であることには全く同じなのに、どうして相手を物扱いして決め付けることができよう。(お前のような)今にも死にそうな役立たずの人間に、どうして役立たずの木であるわしのことが解ろうか。
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このメッセージのポイントは、(小さな)視点での決め付けは他の(大きな)視点で視たら全くナンセンスなこともある。ということです。
この無用の用にはひとつの前提となる思想があります。
荘子(内篇) 逍遙遊篇 より
北の果ての海に魚がいてその名は鯤という。鯤の大きさはいったい何千里あるのか見当もつかない。(ある時)突然形が変わって鳥となった。その名は鵬という。鵬の背中はこれがまったくいったい何千里あるか見当もつかない。ふるいたって飛びあがると、その翼はまるで大空一杯に広がった雲のようである。この鳥は海が荒れ狂うときになると(その大風に乗って)飛びあがり南の果てへと天翔る。南の果てにあるのは天の池である。[中途省略] 蜩や小鳩がそれ見てあざ笑って言う。「われわれはふるいたって飛びあがり、楡や枋(まゆみ)の枝につきかかってそこに止まるのだが、それさえ行き着けないときもあって地面にたたきつけられてしまうのだ。どうしてまた九万里もの上空に上ってそれから南を目指したりするのだろう。(おおげさで無用なことだ)
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さて、この鵬なるハイパー鳥は、ひとたび飛び上がれば、天空はるかかなた(宇宙空間)にまで上って、自由飛翔するのです。そしてその飛翔の目的地は天の池です。 地上の狭々しい所にいる蜩や小鳩達にとってはこの鵬の大世界のことは解る術もありません(これはこれで良いのですが)。しかしながら彼らが鵬のことをせせら笑っている(これが問題)のは彼らがいる狭々しい世界が絶対世界だと思い込んでいるからです。
荘子やその先師にあたる老子は、これらのことを集約化した概念として、道(タオ)というものを説明しています。老子や荘子はこの道(タオ)がどのようなものかは説明しています。・・それはいわば万物普遍の根源即のようなもの。
しかし老子や荘子はその道そのもの(の実体)が何であるかという説明はなされていません。私たちは聖書によってその道の実体が何であるかという啓示が与えられているのです。それは 「わたしは道であり、真理であり、いのちである」(ヨハネ 14:6)と宣言されたお方。即ち 生ける神のみことば イエス・キリストです。
さて、話を少し戻しますが、聖書にある私たちの本来の在り方とはどのようなものであったかということから説明します。
聖書のみことば 創世記 1:31
神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。
つまり、私たち人間も含めて、始めに神がお造りになったものは、すべてが極めて良かったのです。しかし私たち人間の内に 罪 が入り込みました。ちなみに聖書が語る罪とは、私たち人間が此世的価値観で思い込んでいるものとは違うものです。教会ではこのことを「的外れ状態」とか、「道から外れた状態」という説明をしていますが、ここでは道のことを取り上げているので、このことは「本来在るべき道から外れた状態」ということで説明させていただきます。私たちは、本来在るべき道から外れてしまったため、失楽園状態となり、しかも他の被造物も巻き添えにしました。そして人間はそのことを何とかしようとして、狭々しい人工的社会を造り上げました。しかしその内には普遍の真理などあるはずもないので、その内には諸悪と混乱で満ちあふれるばかりでした。そして人間はそのことを何とかしようとして様々な偶像を造りました。・・ここでおことわりするのは、偶像とは、必ずしも目に見え、形のあるものとは限らないのです。たとえていうならば、神無し人倫道徳論なども偶像の一つです。人間は偶像から派生する此世的価値観に束縛された者となり、そのことを基準とした、思い込みや決め付けに心が支配されてしまいました。そしてその結末が「自滅へ向かう道」を歩む者となったのです。「私は死ななければならない」という思い込みもその「自滅へ向かう道」を歩んでいるためです。私たちは「自滅へ向かう道」へと導く此世的価値観から解放されなければなりません。
では、それはどうすれば良いのでしょうか。それは「本来在るべき道」に立ち返ることですが、このことは何も、苦しみ抜きながら登りゆくということではないのです。むしろこの道そのものであるお方、即ち 生ける神のみことば イエス・キリストを我が身に受けるのです(注記:我が身の事として ではありません)。このお方によってこそ私たちは「自滅へ向かう道」や私たち人間を束縛している此世的価値観から解放され、真の自由、真の平和を得ることができるのです。 ・・・・ですから皆さん、真の自由、真の平和を得るためにも、解放主 イエス・キリスト を我が身に受けてください。
解放主 イエス・キリストへの愛をこめて 十字架のヨハネ・テレジオ
参考および引用文献
荘子 内篇 金沢治 訳注 岩波文庫
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